鈴の音
突然、大きな影に覆われ、それは宙に放られた。
地に打ちつけられた際に足が一本失われ、衝撃により動く事もままならなかった。
蝉声が高く響き、声もあげる事もできぬそれは、やがて先ほどよりも大きな黒い影に覆われた。
紅燃えたつ夕空が森の色を奪い、影絵に似た木々の合間を幼な子程の背丈の影が頭を左右に揺らし地を擦り移動している。
影はかつて自分が何であったのか、今やその記憶に乏しい。
ただ強くその胸に抱くは、己に足りぬものを求めており、それを得られなけばやがて自身も森に喰われるという事だけであった。
しかし、影自身にも己が何を求めているのか、もはや判然としない。
影は蝉声の響くこの森に、木々の合間から覗く朱と森影の中をただ移動するのみであった。
ある日、森に人が訪れた。
着物を着た少年であった。
首元まである背の高い草波を泳ぐように両手で掻き分け、茂みを抜けると少年は影を目にした。
影は少年を見上げた。
少年の顔を見下ろすと、少年の目に身体のわりに頭の大きな歪な影の姿が映り、目だけが夕陽の光を帯びその色を反射していた。
影は己の姿はこんな様であったのかと、少年の瞳に映る自分を、じつと見つめた。
翌日、再び森に人が現れた。
着物を着た成人の男あった。
胸元まである背の高い草波を船が海面を押し退けるように突き進み、茂みを抜けると男は影を目にした。
影は男を見上げた。
男の顔を見下ろすと、その目に腕を伸ばす背の低い影の姿が映った。
影は己の姿をまじまじと見つめた。
幾日か経った頃、茂みを揺らし何かが近づいてくるのが見えた。
草の根の間から現れたそれは老爺であった。
地に腹をつけるその姿に、影はどこか見覚えがある心持ちがした。
影は老爺を見下ろした。
老爺の顔を覗くと、その目に膝を抱えしゃがむ影の姿が映った。
もう動かぬ老爺のはだけた懐から腕が一本、奇妙な所から力無くだらりと伸びていた。
ふと、気がつけば私は崖下に蹲っていた。
いつから此処にいたのだろうか。
喉の渇き、疲労感に自分の身体ではないような感覚に襲われながらも、必死に手足を動かし、身体を引き摺るようにして森の外へと向かった。
近くにいた村人に助けられ治療を受けた。
脱水と疲労はあったものの、深刻な外傷はなかった。
私は小説の資料を集めるべく森へ行き、しばらく行方をくらませていたという。
意識を取り戻した場所は滑落したとしか考えられぬ場であるが奇跡的にほぼ無傷であった。
しかし、私は自分の手足に対し、まるで自分のものではないような強い違和感を覚えた。
そしてもう一つ奇妙であるのは、特に損傷もないというのに声を失っていた。
精神的なショックによるもので時間と共に改善されるだろうと医者は言っていたが、私はどこか自分の声が二度と元には戻らぬように感じられていた。
家に戻った私は、寝室へ向かい机の上に置いていた虫籠を覗いた。
羽がひしゃげ虫屋に鈴虫として価値がないと判断され道に放られたそれが、籠の中で静かにその生涯に幕を下ろしていた。
残っていた手足のその殆どが何故か無くなっており、一本だけ身体に残った中足が、力無くだらりと伸びていた。
