【少し怖い話】見えないものが徐々に私の周りを侵食していった話
認知症の進んだ祖母が、私の事を「一郎」と呼びだした。
しかし、認知症でも何でもない父が既に私と愛犬の名をよく間違えて呼んでいた為、私は違う名で呼ばれる事には慣れていた。
どちらかといえば、窓が全開であるのに
「やーこ、スリッパ噛むな!」
などと私の名を呼びつつ愛犬を叱っている父の方が深刻であった。
「あの家の子、スリッパ噛んでるのか。変わった趣味だな」と、ご近所にあらぬ誤解を生じさせていたに違いない。
それと比べれば「一郎」はスリッパも噛まない為、平和である。
暫くすると、母から「一郎」ではなく「やーこ」であると念の為訂正した方が良いのではないかと声が上がった。
それならば父の方も訂正した方が良いのではないかと提案したが、父は認知症の祖母よりも何かが末期だという結論に至りそこは放置される事となった。
夏休みとなると、家での私の出現率も上がり、そうなると必然的に一郎率も上がった。
頻繁に一郎がリフレインされた為ついに母が
「いちろーこ」
と祖母につられて口を滑らせた。
一郎とやーこがコラボしてしまった。
辛うじて最後の「こ」で存在を主張しているが、主成分はほぼ一郎である。
一方、意外にも父だけは頑なに一郎と呼び間違える事はなかった。
しかし、相変わらず愛犬の名とは頻繁に呼び間違えていた。父の中で私と愛犬がうつろいでいる。
ある日、祖母が再び「一郎」と呼んだ。
ここはどちらが主成分であるかを分かって頂く為にも、私は丁寧に訂正をした。
一郎の侵食を止め、せめて「やころう」くらいには私の成分を強めたい。
すると祖母が口を開いた。
「一郎、やーこの上に乗るんじゃないよ」
一郎、お前、何をしてくれている。
私の肩に乗り仁王立ちしているのだろうか、随分アクティブな霊が私にとり憑いている。
雑技団か何かなのだろうか。
私は落ち着く為、冷蔵庫にあったボトルに入った麦茶を飲んだ。
しかし、それは母お手製のダシ汁であった。
口を付けてしまった為、私しか使用する事が許されないダシ汁が出来上がってしまった。
一郎によって我が家の食卓と私の塩分濃度を揺るがす恐ろしい霊障が起きてしまった。
私は別室で洗濯物を畳んでいた母に縋った。
祖母を見ていてくれと言ったではないかと不満げであったがそれどこではない。
やころうの危機である。
しかし母の目には、ダシに咽喉の水分を奪われ「いぢ…一郎おぉ…!」と、呻きながらえずく不気味な我が子の姿しか映らない。
この場に至っては、姿の見えぬ一郎より見える我が子の方が格段に不気味であった事だろう。
母は遠い親戚にも一郎などいないと言うので、彷徨える雑技団員の霊魂であったらどうしようという私の不安は更に煽られた。
アクロバティックに呪われる未来がすぐそこまで近づいている。
姉が心霊写真が撮れたら番組に応募しようと写真を撮り始めたが、肩に仁王立ちしているオヤジの霊などその見た目のシュールさから決して採用されないだろう。
黙って写真を撮られている私を横に、母が実害もないので守護霊ではないかと励ました。
仮に守護霊であったとしてもこの絡み方は些かフレンドリーが過ぎるのではないだろうか。
日本人らしからぬ距離の取り方である。
結局、一郎とやらについてはどうしようもないので、「阿部寛似の雑技団員」という霊らしからぬ迫力を持ち合わせた守護霊という事にし気を紛らわせた。
私達は祖母が一郎と呼ぶ度に、阿部寛に思いを馳せた。
後に判明することだが、「一郎」とは祖母が子供の頃に近所で飼われていた皆に人気の犬の名であった。
ひょうきんで、人懐こく、非常に愛らしい犬であったそうだ。
一郎がぽっと出の雑技団員の霊でなくて本当に安心した。
しかし同時に、私は父にも祖母にも犬と名前を置き換えられていたという事実も明るみとなった。
姉は私と目が合うと
「やころう……」
と、呟いた。
せめて私の成分濃度を高めてやろうと思ったのかもしれない。
姉心が空回りし、空を切っているのを感じた。
その風は少し涼しく、秋の訪れを感じさせた。
