明日が来ることを、勝手に当たり前にしていた― “また今度”が来ることを、疑っていなかった
人間って、
失うとわかっているものには敏感なのに、
「明日もある」と思っているものには、
驚くほど鈍感だ。
また会えると思っている。
また話せると思っている。
今度でいいと思っている。
だから、
後回しにする。
『君の膵臓をたべたい』を見ていて、
一番突きつけられたのは、
“生きる期限が短い人”より、
“明日が来る前提で生きている側”
の方だった。
最初は、
「命の大切さ」を描いた作品なんだと思っていた。
余命宣告を受けた少女と、
どこか孤立した少年。
きっと泣ける映画なんだろう、と。
もちろん、そういう作品でもあると思う。
でも見終わった後に残ったのは、
「命は大切」という綺麗な感想じゃなかった。
もっと静かで、
もっと逃げ場のない感覚だった。
この作品って、
“いつか終わること”より、
“終わらない前提で生きている人間”
の方を描いている気がした。
主人公の「僕」は、
他人との距離感が独特だ。
誰かと群れようとしない。
感情を大きく表に出さない。
必要以上に踏み込まない。
最初は、
人に興味がないタイプなんだと思っていた。
でも見ているうちに、
少し違う気がしてきた。
あれは拒絶というより、
“自分が揺さぶられないための生き方”
だったんじゃないかと思う。
人と深く関われば、
感情が動く。
期待もするし、
失う怖さも生まれる。
だから最初から、
一定以上近づかない。
そうすれば、
何かを失った時も、
致命傷にならずに済むから。
でも桜良は、
そこを壊してくる。
距離感がおかしいくらい近い。
突然笑うし、
勝手に踏み込んでくる。
しかも彼女は、
死が近い人間とは思えないくらい、
「今」を生きている。
食べたいものを食べて、
行きたい場所に行って、
会いたい人に会う。
“また今度”にしない。
それが眩しかった。
同時に、苦しかった。
自分は、
「明日もある」と思って生きていたからだ。
また連絡すればいい。
また会えばいい。
今度話せばいい。
そうやって、
自分にも相手にも、
“明日が来ること”を、
勝手に当たり前にしていた。
でも、この作品って、
綺麗なだけでは終わらない。
主人公は一度、
桜良を無理やり抱こうとする。
あの場面って、
単純な欲望には見えなかった。
何かを残したい。
忘れられないくらい、
深く相手を刻み込みたい。
限りある時間だからこそ、
この瞬間だけは失いたくない。
そんな焦りが、
滲み出ているように見えた。
でも同時に、
それはすごく身勝手でもある。
相手の気持ちより、
「失いたくない自分」の方を
優先してしまっているからだ。
好きだから。
大切だから。
消えてほしくないから。
そんな感情が、
時々、人をちゃんと見ることより、
自分の孤独を埋める方へ向かってしまう。
あの場面は、
その危うさがすごく生々しかった。
だからこの作品は、
ただ綺麗な“余命もの”にならない。
人を想うことの中にある、
未熟さや弱さまで描いている。
この映画が残酷なのは、
“まだ先がある”と思っていた時間にも、
終わりが来ることだった。
その瞬間、
主人公の中にあった
「また会える」
という前提が壊れる。
でも本当は、
最初から保証なんてどこにもなかった。
人はいつか死ぬ。
そんなことは誰でも知っている。
なのに、
自分や大切な人には、
まだ先があるような気でいる。
だから雑に扱ってしまう。
時間も、
言葉も、
人との関係も。
自分はずっと、
失うことを怖がるくせに、
失う前提では生きていなかった。
だから、
大事なものほど
「いつでも取り戻せる気」がしていた。
でも実際は違う。
“また今度”が来ないことなんて、
普通にある。
『君の膵臓をたべたい』って、
「今を大切に生きよう」というより、
“明日がある前提で、今日を後回しにしていないか”
を静かに問いかけてくる作品だった。
別に、
大それたことをしろという話じゃない。
行きたい場所に行くこと。
食べたいものを食べること。
会いたい人に会うこと。
本当はできたはずのことを、
「また今度」で流していないか。
見終わった後、
一番残ったのは、
失うことより、
「失わない前提」で生きていた自分の鈍さだった。
明日があると思って、
後回しにしてきたものは、
本当になかっただろうか。
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