『わたしは真悟』を久し振りに再読した雑感+私が思う影響を受けてる映画3本
楳図ワールド、楳図ディメンションでは、「不可能が可能になる」。野暮なツッコミだけど、住宅地で真夜中に爆破を伴う解体工事はせんやろ、普通。
↓以前の初めて『14歳』を読んだ時と同じで色んな連想が浮かんできて、他人には価値が無くても、自分にとっての備忘録としてこれからも追記予定。
『わたしは真悟』で、「異形の怪物」である真悟の「味方」になるのは、みんな子供ばかりで、真悟を怖れて破壊しようと躍起になっているのは大人ばかりというのが楳図らしい。『漂流教室』で異世界(実態は遙か未来の地球)に飛ばされて「現実を受け入れられず」に最初に自殺や発狂するのは教師。連載中に公開のスピルバーグ監督『E.T.』(1982/米)の影響もあるだろう。その数少ない味方である子供たちですら容赦なく死なせるのも楳図らしい。スピルバーグと楳図は、共に「ピーター・パン症候群」?との指摘もある。

『わたしは真悟』では、国際社会(欧米の国?)の中で日本だけが嫌悪・憎悪の対象で、「日本以外の国」が普通(正常)であるという描かれ方である。図式化すれば「日本以外の国(国際社会?)=正常(正統)=多数派」となっていて、「日本=異常(異端)=少数派」である。その中で正常=国際社会を代表?するイギリスの外交官の息子であるロビンは、初対面の13歳?の日本人少女(真鈴)に性的に興奮して束縛しようとする異常者(ロリコン?)であり、いわば「正常の中の異常(ガン細胞?)」である。そして「多数派の威を借る(正統を隠れ蓑にしている)少数派」でありつつ、異端=日本人の弾圧・排斥に加担する側でもある。「異端(日本)の中の異端(怪物)」である真悟にとってロビンは、ある意味(極右と極左は似る)では似た者同士(写し鏡)でもあり、不倶戴天の敵=〈許されざる者〉なのである。ロビンが死ぬ場面(エルサレムで十字架に胸を貫かれる)も、真悟とは「相打ち」に近い「肉を切らせて骨を断つ」の状態。
この真悟の立ち位置である「蔑視される異端の存在の中でも、更に異端」というのは、昭和中期?の、漫画が「子供のおやつ」という範疇から抜け出して大衆文化の中での存在感を強め始めた時に、PTAや一部の知識人からの抗議や焚書対象だった「マンガ=悪書」の時代の漫画の中でも、更に蔑視が強かった?「恐怖マンガ」の第一人者だった楳図かずおにも該当(≒真悟)する。
何十年も前に偶然に見た竹村健一の番組に、おそらく『「NO」と言える日本』(1989年)を出版後の石原慎太郎が出演していて、『G7の国で白人以外の国は日本だけ』というようなことを発言していた。「だから日本には仲間がいない」という文脈だったのか、「だから日本は凄い」という文脈だったのかは憶えてないが、当時は「確かにそうだな」と思った記憶がある。まだ中国が現在のような(経済力でも軍事力でも)「超大国」ではなかった時代。
関係ないけど、昔にビデオで観た『許されざる者』(92)とは、ジーン・ハックマンが演じた悪人?を指すと思ってたが、主役のクリント・イーストウッドのことでもあるんですね、多分。今頃気付く。「赦されてはいない者」。

私は「メロドラマ」を「男女の〈激しい恋〉と〈すれ違い〉が主体の物語」という風に勝手に理解しています。そして、『わたしは真悟』を20数年ぶりに再読して感じたのは、本作は「メロドラマ」がベースだったという発見。
メロドラマのラストは、「すれ違いが続くが最後には二人が結ばれる」が基本だが、必ずしも「めでたしめでたし」のハッピーエンドとは限らず、片方が死ぬ、あるいは両方が死ぬ、というパターンもある、という風に勝手に理解しています。「心中もの」と「男女カップルの犯罪逃避行」も、風呂敷を広げれば(ガバガバ設定?)、メロドラマの一種ではないかと思っています。
「〈社会のルール・モラル〉と〈男女カップル〉のすれ違い」という点で。
『わたしは真悟』では、途中で二人が「生き別れ」てから、結局最後まで会うことが出来ないが、真鈴の『サトル、ワタシハイマモアナタガスキデス。マリン。』を悟に伝えるメッセンジャーの役割を、真悟が命懸けで務める。
有名な小説『嵐が丘』は未読で、1939年の映画版を観ただけですが、これも私はメロドラマだと感じましたが、一般的には「ゴシック・ロマンス」か。
だとすると、『わたしは真悟』は「楳図流のゴシック・ロマンス」となる。
楳図かずおで「大恋愛もの」といえば、記憶に無いけど『イアラ』もかな?
楳図哲学?との偶然の一致かもしれないが、やはり「ガイア理論」の影響がある。真悟の『地球には人間が多すぎる!』というようなセリフがあった。
今回、無料公開のおかげで久しぶりに読めた感想の一つに『本作は楳図かずおが描く〈絵〉としては最高峰ではないか』というのがある。『14歳』の絵は、長年の酷使のせいか腱鞘炎なのか、線がブレていたから。絵の素養は無いので素人の感想ですが、老若男女も外国人(白人)も巧みに描き分けていて上手いと思った。白人に関しては、昔からですが「マネキン感」が強いが。
私は過去に漫画家のジョージ秋山氏について『「何かとてつもなく悪いことが起こっているようだが、それが何かは見当もつかない」という〈不穏な空気〉で物語を引っ張るサスペンス(宙吊り)の手法が上手い』と投稿したことがありますが、それは、本作での楳図かずおの作風にそのまま当てはまる。
★ 「楳図かずお」と「スティーヴン・キング」の類似性
イギリスの作家クライヴ・バーカーによるスティーヴン・キング論『恐怖の旅路で命を落とさないために』に書かれてることは楳図かずおにも通じる。
噴怒の虎は調教の馬より賢い
――ウィリアム・ブレイク『天国と地獄の結婚』
_最初に告白しておきたいが、ぼくには理屈っぽい話をする気はない。まとまりのあることを主張しようと思ってこのページに登場したわけでもない。ただし、スティーヴン・キングの作品は熱心に読んでいるほうだ。そして恐怖について、小説について、夢について、幻想の地理学について、雑然と考えていることもある。そうしたことはたがいに関連しあい、キングの小説とも細い糸でつながっているかもしれない。 ~~~ キングは死を売っている。血をすする者の物語、肉を食らう者の物語、魂の堕落の物語――正気が、コミュニティが、信仰が、もろくも崩れ去ってゆく物語を、キングは書き続けている。その作品では、闇に打ち勝つ愛の力さえ確かなものではない。隙あらば愛さえも呑みこんでやろうと怪物たちは待ちかまえている。無垢も守りの力にはならない。大人と同じように子どもたちもやすやすと墓場に入り、ごくたまに復活を遂げる子供がいたとしても、宗教が約束した栄光とは程遠い形でこの世に蘇るだろう。_そんな小説が商売になるのか、と思う人もいるかもしれない。しかし、キングの手にかかると、売れることは間違いなしだ。何十年も前から出版界の負け犬だったホラーというジャンルを、キングはあなどりがたい一大勢力に変えた。 ~~~ _はるかに手の込んだ小説的現実を創り上げるキングの手法は、小説の世界やそこに住む登場人物にわれわれをたやすく同化させるという長所がある。しかも、お馴染みの現実を見せたあと、まったく違う見方を提示することによって、われわれの現実感覚を根底から覆す力も持っている。 ~~ _その前に、現実感覚を根底から覆すとはどういうことか、少し書いておきたい。キングの小説に、革命的な要素がごった煮的に含まれていることは、これまでにも指摘されてきたことだ。欲しくもない力を手に入れた弱者、力を失ってゆく強者、変身への絶えまない恐れ(あるいは希望)、何気ないおしゃべりのように見える文章の底に見え隠れする神話的要素――こうした黙示録的な部分があるにもかかわらず、キングの世界観の根本は保守的なものだ、と人はいう。キングは狼の皮をかぶった羊ではないか。混沌を描いてわれわれの心を騒がせるのは、怪物たちがかき乱す秩序をもっと大事にしろといいたいためではないか、と。_キングの作品の中では、回復不可能なほど大きな変貌を遂げた世界を描いたもの[ ~ ]がぼくは好きだから、その指摘にも同感しないわけではない。しかし、保守的だという説の正しさを証明する箇所とは別に、キングの作品には正真正銘ぼくたちの現実感覚を転覆させるような部分も多く含まれている。そうしたイメージは、さまざまな精神の状態や肉体の条件を喚起し、不安をかき立てるばかりでなく、ぼくたちの欲望や倒錯心理をも刺激する。_おまえはどうして現実感覚の転覆をそんなに高く評価するのか、と疑問に思う人もいるだろう。_それにはたくさんの理由がある。ここでいっておきたいのは、幻想文学がまさしくその方面の可能性を作家に提供するものであるというぼくの信念だ。芝居、本、詩を問わず、一個の作品を評価する基準は、その分野だけに与えられた可能性をどれだけ熱烈に追求しているかという点にあるべきだ。最良の幻想文学は――映画や絵画でも同じだが――ほかの“写実主義”文学と違い、人間の体験を肌理細かに再現することができる。なぜなら、幻想文学は、ぼくたちが住んでいる複雑な世界を丸ごと包みこむことができるからだ。_ぼくたちが住んでいる複雑な世界とは精神のことだ。結局、人間が生きている場所は、自分の心の中にほかならない。人間の精神は、奇怪な大鍋のように、知覚の情報・感覚の記憶・知的な思索・悪夢・夢をぐつぐつ煮こみつづけている。その味はどんどん濃厚になってゆく。渾然一体となったそのさまざまな要素を同じ平面上に並べることができるのは、(しばしば侮辱的に)ファンタジー=夢物語と呼ばれる分野以外にはない。_そうした作品に描かれたヴィジョンを取りこむことができたら――自分の心にそのメタファーを住まわせることができたら、転覆の準備は整ったことになる。そのときに初めてぼくたちは自分自身の全体像を把握することができるだろう――これまで抑圧されてきた禁じられたものへの嗜好が解き放たれ、子どものころから聞かされていた話とは違って、奇怪なもの、おぞましいもの、逆説的なものを好むことが、実は健康の証しであることを悟るのだ。だからぼくは、こういいたい。転覆せよ、と。けっして弁解するな。_それはキングの輝かしい業績のひとつでもある。最初からキングはけっして弁解をしなかった。そしてホラー作家であることを恥じなかった。キングはこのジャンルを評価した。十年前、二十年前とくらべて、いま、ホラー小説の評価が高まっているとしたら、キングの力によるところが大きいはずである。 ~~ _ここで思い出しておくのも無駄ではないかもしれない――キングが喚起しようとしているのは、ただの《夢》ではなく、《悪夢》と呼ばれるものなのだ。 ~~ _優れたホラー小説を読むと、ぼくたちはその夢の状態に目覚めたまま入ってゆくことができる。しかも、悪夢がもたらす符牒や信号を解釈することさえ可能になる(※渡英してから真悟が発する機械語を受信するようになる電波系でメンヘラな真鈴!)。 ~~ 正直にいうと、ぼくは初期の作品のほうがずっと好きだ。初期の作品には黙示録的な感情がより把握しやすいかたちで現われているせいもあるし、なによりもぼくは世界がひっくりかえる話が大好きなのだ。 ~~ だから、この領域でぼくたちを圧倒するイメージの数々は、けっして神経症の投影ではない。それよりもずっと巨大なもの、ずっと矛盾に満ちたもの――すなわち神話的感情なのだ。_キングは、そうした感情を喚起することができる作家である。 ~~ 人間であれ、半人間であれ、隻眼の巨人キュクロプスであれ、キングの作品に登場する怪物たちは、ぼくたちにも理解できるかもしれないが、真剣な共感を呼ぶ存在ではない。道徳的に堕落しているのは明らかで、善悪の色分けは最初から決まっている。その怪物が、犬を蹴り殺したり、子どもを食らったりするのを見て、(じつは怪しいものだが)おれは違うのだと誰もが安心する。自分は天使の側に属しているのだ、と。_しかし、それは作り話だ。ぼくたちは天使ではない。ぼくたちの心の中には《闇》の棲む場所がはじめから用意されている。健康のためにも、ぼくたちは、かなり広いその場所を尊重し、探検してみなければならない。_結局、人が恐怖小説を読むのは、苦しみや死を見物するのが好きだからだ。おぞましいものを見たい欲望があるからだ。天使ならそんなことは考えない。_この《正義の新時代》――愚にもつかない道徳が叫ばれ、変わりばえのしない偽善者たちが従者をどんどん集めているこの時代には、何よりもまず人間は完全だという考えを捨てなければならない。そのかわり、ファンタジーだけが解き明かすことのできる人間の複雑さや矛盾を称えなければならないのだ。できることなら、善と悪、光と闇、現実と虚構といった似非二元論に代表される単純化の波に溺れてはならない(※冒頭の『天国と地獄の結婚』のように?)。つねにパラドックスを引き受ける用意をしておく必要がある。_キングの作品では、しばしば子どもがその知恵を持っている(※楳図作品でも!)。子どもは、現実の体験と想像上の体験を融合させ、五感が捉えきれない真実を想像力が語ってくれることを知っている。この教訓は何度でも繰り返す必要がある。それとまっこうから対立するのが、これまでぼくたちが教えこまれてきた原則、これさえ知っていればたくましく世の中を渡ってゆけるといわれてきた原則である。証拠第一主義。論理などというものは、ちょっときっかけを与えてやれば、恐ろしい狂気、見事なまでに論理的な狂気に向かって突っ走るだけなのだ(※「理屈と膏薬は何処へでも付く」)。_キングが売っている商品の目録を読み返して、ぼくの要約がまだ充分でないことを知った。そう、このリストには《死》がある。《魂の堕落》もある。しかし、そこには《ヴィジョン》もある。_ヴィジョンといっても、政治家や実業家や聖職者が口にするものとは違っている(※楳図は漫画で「未来を先取りする」ことを自分の使命だと記している)。よりよき経済の、よりよき内燃機関の、よりよき楽園のヴィジョンを売り物にしているわけではないのだ。こうしたヴィジョンは、ぼくたちを束縛し、ぼくたちの目を見えなくするためにでっち上げられたにすぎない。そのヴィジョンを本気にしたとたん、夢の言葉は失われ、夢の知識をなくしたぼくたちは無力になる。_そうではなく、キングが差し出すのはまったく別のヴィジョンである。彼がぼくたち大人に教えようとしているのは、キングの小説に登場する子どもたちなら最初からよく知っていることだ。キングの作品に雄弁に描かれている旅――その旅の途中で恐怖が出現する場所は、じつはぼくたちがこれまで通っていた街路にほかならず、生きたまま旅路の果てにたどり着こうと思えば、役に立つのはぼくたちが生まれたときから教わってきた陳腐な原則やくだらない形而上学ではない。そのときに頼りになるのは、闇の自己、夢見る自己といかに親しく付き合ってきたかという事実だけなのだ。
クライヴ・バーカーは「リヴァプール大学哲学科卒業」らしく思考が深い。「ホラー小説」を「恐怖マンガ」に読み替えれば、まんま楳図かずおでは⁈

☆ 『わたしは真悟』が影響を受けていると思う映画・3本
私が勝手に思い込んでるだけで真偽の判断は読む人が判断して下さい。3本ともに有名な原作小説の映画化ですが、当然のように私は読んでいません。
仮に楳図氏が影響を受けていたとしても、映画版か、原作版かまでは不明。
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◆『フランケンシュタイン』(1931/米) ※原作は女性作家の同名小説
◆『まごころを君に』(1968/米) ※原作は『アルジャーノンに花束を』
◆『情婦マノン』(1949/仏) ※原作は『マノン・レスコー』
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◆『フランケンシュタイン』(1931/米) ※原作は「ゴシック小説」
知能が芽生えた「不気味で醜いロボット」の真悟が、その行方を捜す男達(コンピュータの関係者?)に居場所を知られ、真悟を匿っていた下町の悪ガキ達(小学校低学年?幼稚園児?)数人と共にトラックで逃走するが、当然子供は運転したことがないので衝突事故を繰り返し、最後に男女の幼児2名と真悟は追っ手から隠れるために川に潜る。しかし、ロボットの真悟と違い、いつまでも水中に潜っていられない男の子の頭を真悟が上に出ないように押さえ続けたため、男児は窒息し溺死してしまうが、真悟は死因が理解できない。
漫画のこの場面、映画では、有名な「フランケンシュタイン(の怪物)に花を渡す小さな女の子」という場面があり、スペイン映画の『ミツバチのささやき』(1973)にも出てくるが、大変ショックなことに、直後の場面で、原因は不明だが、女の子は溺死?した状態で父親に抱えられている。このショッキングなシーケンスが原作小説にあるのかは知りませんが、おそらく、怪物は女の子と湖?の近くで遊んでいて「悪意の無い行動」で死なせてしまった⁈

楳図氏には、少なくとも短編で2作「フランケンシュタインもの」がある。
生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれる。そして、狂気をはらんだ研究の末、「理想の人間」の設計図を完成させ、それが神に背く行為であると自覚しながらも計画を実行に移す。自ら墓を暴き人間の死体を手に入れ、それをつなぎ合わせることで11月のわびしい夜に怪物の創造に成功した。
誕生した怪物は、優れた体力と人間の心、そして知性を持ち合わせていたが、細部までには再生できておらずに、筆舌に尽くしがたいほど容貌が醜いものとなった。そのあまりのおぞましさにフランケンシュタインは絶望し、怪物を残したまま故郷のジュネーヴへと逃亡する。しかし、怪物は強靭な肉体のために生き延び、野山を越え、途中「神の業(Godlike science)」 である言語も習得して雄弁になる。 ※原作小説のストーリーの一部
怪物は村外れの民家で出会った少女マリアと交流するが、不意に彼女を湖に投げ込み溺死させてしまう。 ※1931年の映画版のストーリーの一部
◆『まごころを君に』(1968/米) ※名作の誉れ高い原作は未読
産業用ロボットの真悟が、世界中の機械やコンピュータとつながり急激に高知能化(言語能力も獲得)して「悟り」を得た(真理を悟る?)後で、様々な事件による(真悟にとっての)肉体=部品の欠損などの影響もあり、徐々に知能が衰えてくるのだが、真悟は「自分の知能が衰え始めている。残された時間は少ない」という自覚をモノローグで表明していて、とても哀愁、寂寥感がありグッとくるものがあるが、これはおそらく『アルジャーノンに花束を』。私は、旧題が『まごころを君に』となっている映画版しか観ていませんが。
IQ68から超天才に変ったチャーリィの運命は?
涙がとまらない感動の傑作SF
チャーリィは陽気な32歳。生まれながらの知的障害者だ。パン屋で働き、夜学に通う。
そんな彼に「頭をよくしてあげよう」と科学者からの突然の申し出があった。未知の、危険な実験の被験者になるのだ。しかし、チャーリィは喜んで手術のため入院する。同じ実験を、白ネズミのアルジャーノンも受けていた。
やがてIQが185にまで高まり、超天才となったチャーリィは自我が強まり、知識欲も旺盛になり、人々を驚かす。
だが、驚くべき天才ネズミとなったアルジャーノンは、急速に知能が後退していく。はたして、チャーリィは?
SFの傑作であると共に、読者を深い感動に包み込む不朽の長編小説。

真実の愛は瞬間に訪れ、はかなく消えて行く……
愛とはいつかうち砕かれるものか…
恋とはいつか傷つくものか…
真実の愛とは、かくもはかないものか…
古都ボストンに美しく散った恋の花びら!
美しもはかない真実の恋……
※映画パンフの↓キャプション

◆『情婦マノン』(1949/仏) ※原作は「ファム・ファタール」の元祖!?
今回の無料公開版は、最初の単行本(B6判/全10巻)のようだが、その第8巻で、睡眠薬で眠らせた真鈴を後部座席に乗せてロビンが車でリビア砂漠に行き、そこでの現地人の戦争?紛争?に巻きこまれ、ロビンが撃たれてケガをする場面(ロビンの説明ではエルサレムが近いらしい)、多分『情婦マノン』の終盤。舞台設定や登場人物が映画と同じ。映画では主人公の男女二人は「クズ女(マノン)と、クズ女に巻き込まれてヒドい目に遭う男」という設定だが、『わたしは真悟』では逆パターンの「クズ男(ロビン)と、クズ男に巻き込まれてヒドい目に遭う女(真鈴)」になっている。舞台となる土地も、ほぼ同じなので、きっと参考にしているだろう。昔に観ていて無意識に影響⁈イギリスの外交官の息子であるロビンにとっては、憎むべき日本人の真鈴が「ファム・ファタール」であり、最初に出会った瞬間から挙動不審な行動。これは映画のネタバレにもなるが、漫画と逆で映画では女(マノン)が死ぬ。

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歴史にも地理にも疎いのですが、リビア砂漠とエルサレムって徒歩で行ける距離なのでしょうか? 『情婦マノン』では海岸からユダヤ人の集団とトラックで移動する途中に故障し、仕方なく徒歩で移動中に現地人に襲撃される。
★ 楳図が『わたしは真悟』について語ってるインタビューと対談
2016年のインタビュー
1985年の『わたしは真悟』連載中(1982~1986年)での亀和田 武との対談
当時STARLOGのこれ読んで単行本買った
— suppa micro panchop (@suppasan) December 4, 2025
楳図かずお×亀和田武
"わたしは真悟"の秘密に迫ろう対談
スターログ日本版81号 (1985年7/1発行)より#楳図かずお #わたしは真悟 pic.twitter.com/2UC20S1bWR



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