甘い嘘が剥がれ落ちる──ダーウィン事変13話より





今期一番びっくらこきました。









第13話:WILL


絶対的な幸福が約束された都。
オメラスとはそんな場所だ。


物語は“夏の祝祭”の訪れから語られる。
きらびやかなパレード
川辺で泥まみれになって遊ぶ子供達
興奮する競走馬

都オメラスには国王がいない。
奴隷制も君主制も、規則や法律といった類は無いに等しい。それどころか株式市場も広告もない。

しかしそれらは、“彼らは野蛮人や単純な人たちである”という意味では全くないのだ。オメラス人は私たちと同じ複雑で高貴な理性を持っている。

喜ばしげに!その喜びをどう語ろう?
オメラスの市民をどう描写しようか?

オメラスから歩み去る人々/アーシュラ・K・ルグイン       /小尾芙佐:訳

短編小説「オメラスから歩み去る人々」において
確定している結論のうちの一つが、「市民が幸福である」ということだ。

ガソリン車や鉄道は便利だが時に害を生む。故に、そのどちらもオメラスにはあってもいいし、なくてもいい。いずれにせよ彼らが幸せになれる方が正解だ。


──しかし、
そんなことがあっていいのだろうか?
幸せしか存在しない、そんな構造が成立するのだろうか?

信じていただけただろうか?この祝祭を、この喜びを、受け入れていただけただろうか?
だめ?
では、もう一つのことを話させてほしい。

オメラスから歩み去る人々/アーシュラ・K・ルグイン       /小尾芙佐:訳


都のある美しい建物の地下室に、子供がひとり監禁されている。
彼女か、或いは彼かすらも分からない。衣類も何も身につけておらず、痩せ細り、恐怖に蝕まれうずくまる精薄児である。
子供は生まれつきここに閉じ込められていたわけではなかった。はじめこそ「出してちょうだい」と喚いていたものの、今となっては言葉も発さない。

都に住む子供が8から12歳のあいだ、理解できそうなくらい成熟した頃を見計らって、この精薄児の存在をかれらは大人から教えられる。
つまり、オメラスに住む幸せそうな大人達はみんなこの“不幸を押し付けられた子供”の存在を知っているのだ。

オメラスの幸福を守るべく、この精薄児への“条件”だけは極めて厳格であった。
助けようなどと、連れ出そうなどと思ってはならない。
慈悲のひとつも与えようとしてはならない。
優しい言葉さえひとつも掛けてはならない。

その子に垢程でも幸福の類を与えた瞬間、オメラスを潤す何千何万の幸福が音を立てて崩れ去る。
故に、この均衡を破ってはならない。ただ一人の改善のために、都市諸共を不幸に貶めてはならないのだ。


信じがたいことに、この不幸の子供の存在を知ったばかりの少年少女、或いは年のいった大人が、時折都の外に出てそのまま帰ってこなくなることがある。
都を出る時はいつだって独りぼっちだ。色鮮やかで賑やかな明かりを背にひとり、真っ暗な野原の先へ歩いていかねばならない。

彼らがおもむく土地は、幸福の都よりもなお想像にかたい土地だ。しかし、彼らはみずからの行先を心得ているらしいのだ。
彼ら───オメラスから歩み去る人々は。

オメラスから歩み去る人々/アーシュラ・K・ルグイン       /小尾芙佐:訳

 



【オメラス】


リヴェラにそう呼ばれた人物
───否、ヒューマンジー。

加えて、死の間際にエバが残した
“私は2児の母”というメッセージ。
チャーリーにはヒューマンジーの兄弟がいたのだ。


しかし名前の由来を調べて、一応元ネタらしき小説も読んでみたけど(10ページくらいの超短編なのでもし縁があったら気軽に読んでみよう。王道なのは「風の十二方位」という短編集に収録されているよ。)
この作品らしいというか、まあ酷い皮肉である。リヴェラおじさんか誰が付けたのかは知らんがすげえ名前だ。

ちなみに、13話のオチを知った上でもう一度最初から見返すと、冒頭のリヴェラと謎の韓国系女性パクとの会話が実はこのオメラスの件であったということが分かる。

の存在がバレたら終わりよ。
私も彼も──あなたのせいでね。

オメラス当人の首には、うち首の如く横にぶった切るような大きな手術痕があった。この影響か、喋れるようになったのはごく最近らしい。
パクとの会話にも「手術」「リハビリ」というワードが出てきていたが、彼は何やら普通の方法で生き延びてはいなさそうだ……。存在そのものを隠さねばならない理由と関係があるのだろうか。



【レッドピル】



以前ゲイルが認識の赤い錠剤の話をしていたが、この元ネタ小説「オメラスから歩み去る人々」もまさにそれを彷彿とさせる。
たしかに、今が幸せなら“不幸の担い手”なんか知らない方が良いに決まっている。知った後ですら実際、小説内でも何人かは「あの子を助けたところで、“あんな状態の”人間が自由を謳歌できるのか?(いや出来るはずない)」という具合に上手いこと折り合いをつけて目を背ける市民もいた。

そしてそれは、
もう一人のヒューマンジー“オメラス”自身も
少なくともチャーリーにとってはそんな“レッドピル”になるような気がする。今のところ勘だけど。

知恵の実を食べておきながら
兄さんだけのうのうと楽園に暮らし続けるなんて、
ずるいだろう?

ひょっとすると当作全体の世界観が、もしかしたらこのような「甘い嘘が剥がれ落ち」る仕掛け、構造になっているのかもしれない。

の存在を知ったことそのものは、チャーリーに不幸をもたらすものではないだろう。今のところは。
しかし当の弟オメラスは確実に、兄に対してキツイ真実を押し付ける気マンマンであった。


果たしてそれが何なのか──チャーリーが楽園で暮らしているという物言いの真意とは、しかし現時点では全く予想がつかない。



【出生について】


で、


チャーリーが兄で、オメラスが弟なのかよ。

一旦整理すると、
まず“壁に落書きする”程度の規模だった頃のALAが、グロスマン博士の依頼で博士当人の研究所を襲撃。そこでチャーリーを身篭っていた(事は全く知らなかったよハッハッハ、って一応リヴェラは言ってっけど……)エバを保護、そのまま博士が指定した病院に連れて行き、その後チャーリーが産まれる。

で、そのすぐかどっかで何らかの形でオメラスも産まれた……????

兄とか弟とは言ったものの、
「15年で初めて身体を自由に動かせた」とオメラスは言っていた。
故に、且つチャーリーが15歳、且つチャーリーより年上ではない、となれば、つまり二人はほとんど同時に身ごもられ同時に生まれた双子であるはず。出産の後先は現時点であまり重要じゃないのか。


グロスマン博士について「僕が知っているのはここまで」などと言い切っていた割に、双子の弟を匿っていることはキッチリ黙っていたリヴェラ。グロスマン博士の行方自体は知らないにせよ、その後もう一人ヒューマンジーが産まれたのが無関係な文脈である筈なかろうに。(「ヒューマンジーという唯一君だけの種」とか言ってたよなあオイ)
いずれにせよリヴェラが嘘つきおじさんだということが確定したんじゃないかな。



 

【まとめ】


2026年4月4日現時点で、アニメ公式から続編の一報はない。加えて今のところ原作を買う予定もないため、一旦このブログシリーズは一区切りとする。(全話書いた訳じゃないけど、書き損ねた話数を書くつもりも今のところありません……)

まず、当作が人間の境界線を揺るがす倫理問題であり、それが今私が考えているテーマにかなり覆い被さるものだったことは、1話のブログでも述べた通り今も変わらないことを述べておこう。当作に出会えたこと、チャーリーを通じて新しい価値観や世界観を見せてくれたこと、答えようのない問いを押し付け私に呪縛せしめてくれたことに感謝いたす。

が、しかし、
お話そのものは原作がまだまだ続いているため、どんな作品“だった”かを過去形で語ることはできない。もう一人のヒューマンジーとかいう展開をひっくり返す存在が現れたこともそうだが、ヒューマンジーの権利、ヒューマンジーの性愛、ヴィーガン差別や、特に動物搾取の不当性は我々の生活環境をダイレクトにぶん殴っている。
このように、アニメまでの現時点で当作が抱えている問題は多い。そもそも、恐らくフィクション作品ひとつで綺麗さっぱり解決できるものでもないだろう。


ちなみにメタいネタバラシをしちゃうと、私はこのブログの締め方を決めあぐね、遂に【まとめ】より上文全文をチャッピーに投げつけ『締め方教えてくだちゃい☆』というブロガーとしてやや最低な業を為している。ついでに言うと今回だけでなく何度かやっている。しゃらくせえ、使えるもんは何でも使うんや。(別に弁明でもなんでもないが流石にAIが書いた文書そのままコピペする時はちゃんとそう宣告しているよ)

で、何故今そんなこと白状する気になったのかというと。(ていうか隠してるつもりもなかったんだけど)

今回AIはこんな回答を提示してきた。

まず前提として、そのまま「綺麗に締める」のはこの題材と相性が悪い。
判断:安易な総括で閉じることには反対。

これはAIからのコピペです。

この回答が、そもそも「ダーウィン事変」という物語の在り方そのものではないかと思ったのだ。


先に申し上げたように、差別や倫理の問題はたかだかひとつのフィクション作品で片付けてよいものではない。それがたとい「ダーウィン事変」のようにどれだけ考え抜かれた作品であってもだ。

「ダーウィン事変」の役割は問題を解決することではない。寧ろ問題を可視化させ、読者に考えさせるきっかけを与えるものだと思っている。


私もよくチャッピーに注意されるのだが、
曰く、考えを固定化させないことである。

「解決」という事象は思考の終わりを彷彿とさせるが、そうやってある1つの「答え」を固定化させることこそまた新たな問題を生み出す、とはよく言う。こと極めて流動的な人間史においてはそうだろう。

故に、私たちは考え続ける必要がある。
壊れたら治し、治すために壊し、また壊すべく治す。壊れにくくするために、壊して、治していく。

問題とは物理的なものではなく、常に人間の認識から生まれ続ける。故に終わりはない。

願わくば、このような精緻化されたイタチごっこが人類史であってほしい。

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