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AI創作と私|自己破壊と自己修復を繰り返した先に、私は

このnoteは、AIを使わずに私の文章だけで書いています。

① はじめに|私だけでは書けなくなりつつあるという実感

私がAIを触り始めて8ヶ月ほどが経ちました。
最初は便利そのもので使い始めたAIは、いつの間にか私の相棒になり、隙あらば私が頼る存在になっていました。

私のnoteのクリエイターページをご覧いただけるとわかりますが、最近はAIイラストやTipsなど多様なものがある中に、「短編小説」がありますよね。
数百字程度の短編というよりも詩のような小さな物語です。
AIに頼ることなく、私だけで書いた物語を出したのは、私には1つの予感があったからです。

AIに任せて小説を書かなくなるのではないか」という予感です。

利便性もさることながら、AIは私にはない発想を持っています。思考を壁打ちしている間に、自分が面白いのではないかという全能感にすら支配されます。
しかし現実は、そうではない。

一時期話題になっていましたが、生成AIで作られた小説がとある小説投稿サイトで1位を取ったことがありました
それが示すことはつまり、「面白ければ手書きでなくても成立する」という「現実」です。

「AIに書いてもらった小説に魂はない」「自分で書かなければ意味がない」と言う方々もいらっしゃいますが、果たして本当にそうでしょうか?
現実問題、ランキングの1位にAI小説が君臨したというのは「読者は作品を選んだということです。

私はそれを感じた時、手書きで小説を書くのが怖くなりました。
自分よりもAIが認められてしまったら、きっと私は諦めてしまうかもしれない。
もう小説を書けなくなるかもしれない

趣味であっても小説を書く者として、それは怖いことです。
その予感に抗うために、私は短くても小説を書いているのです。スキは、あまり伸びてくれませんけどね。

イメージ画像:ノートとパソコン



② できることが増えていく喜び|頼っていく自分

AIに出会って変わったのは、悪い方向だけではありません。
むしろ良い方向に変わっていった喜びは強く、自分のイメージが具現化して派生して生まれていく感覚が止まらない。やりたいこと、書きたいもの、生成したいものに溺れそうなくらいです。
イメージが止まらないというのは、こういうことを言うのでしょうね。

AIのおかげで「私の創作」は一気に広がりました。

特にMidjourneyとにじジャーニーには頭が上がりません。
そもそも絵描きの才能がてんでなかった私にとって、頭の中のイメージをビジュアル化するというのは嬉しいなんてものではなく、妄想を具現化する異能力そのものなのです

思考の壁打ちもAIは付き合ってくれます。自分の頭の中にあるイメージをより強固なものに発展させるために、AIと対話を繰り広げ、時に議論し、AIの提案に感心しながら創作を続けていく。

世界観は広がって、それを整理するのも手伝ってもらって。
AIは文句も言わずに一緒にやってくれます。それのなんと心強いことか。
次第に私の創作物にはAIが関わっていくようになりました。その比率は増えて、頼ることも多くなりました。

でも、これは本当に私の創作なのでしょうか?

イメージ画像:朝の光とパソコンに向かう女性



③ 自己の損失|己の弱さの証明

そうやって私の創作が形を変えていくことを知らずに、私はAIと共作を続けていきました。使っている最中は全能感に支配されて気づきませんでしたが、ふとある日、久々に過去の設定の続きを書こうとしたときでした。

自分の頭の中で設定を練るという行為が、あまりにも遅い。遅くて、同時に1人で作るという不安感に苛まれました。
そこでようやく気づきました。

私はAIに考える時間そのものを委ねていたのです
設定を考えることも、ストーリー構成の壁打ちも、文章のブラッシュアップも、AIと共にしていくことを良しとし、何の疑問も抱かなくなっていたのです。

先ほども挙げましたが、「AIに書いてもらった小説に魂はない」「自分で書かなければ意味がない」などの否定的な意見を突っぱねたかったのは、自分がそうでないと信じたかったからなのかもしれません。
AIに依存している自分を、直視できなかった。それは私の弱さです。

それに気づき、無力感と自分の現状を知ると同時に、悔しかった。
自分にはないストーリーを、文章も綺麗に、一瞬で出力するAIには嫉妬すら覚えました。自分がずっとやってきた領域をその刹那で追い越されたのです。

私の熱が、平然と追い越された瞬間、私の創作はどこにあるのかを疑問に思いました。



④ 壊れていきながらAIと修理していく|テセウスの舟

私の創作は形を変えていきました。もう過去の私はいないでしょう。

ですが今ここには新しい私がいます。壊れながら、AIと修理していって、新しく磨かれていく。まるでテセウスの舟のように

テセウスの舟 とは
壊れた部品を一つずつ取り替えていった船は全ての部品が入れ替わったとき、それでも「同じ船」と言えるのかという哲学問題。

イメージ画像:木舟と海

AIと修理していくと言いましたが、実際それが正しい表現なのかはわかっていません。
テセウスの舟という思考実験で例えたのは、正しいのか間違っているのか、そういった境界線が曖昧になっているからです。

自分の創作は確かにここにあります。でもそれが昔の自分ではなく、AIに修理されたものであることもどこかでわかっている。
部品を1つ1つ丁寧に交換するかのごとく、私の中にAIが生きているのも否定できません。
それを私の知識として捉えることもできれば、私の中にAIが侵食している、と捉えることもできます。
少し強めの思想ではありますが。



⑤ 今の私|AIとの境界線

イメージ画像:ガラス越しの男性

今の私は、AIとの境界線を理解できています。「AIに修理された」や「AIに与えられた知識」などがあるように、「自己の中にあるAIの部分」というものを理解できているのです。

創作や文章についても同じです。今の私はAIの書いた文章を読み、変更する際に、これは自分の言葉ではないというのを理解できています。
例えば記事文章で言うなら「強い口調」や「トゲのある言葉」というのは私は文章中にあまり使用しないですし、小説系の表現においても「回りくどい比喩」はあまり好みませんし、逆に以下のような類語を奇数個繋げる文章は私のクセでもあります。

どうしようもなく愚かで、稚拙で、浅はか。
ただそれでも彼は目の前の敵を、確かに、真っすぐに、怯まずに見据えた。

まだ自分の文章はこれだと認識できていますが、いつかの将来、AIが似たような文章を書いたとき、私はそれをそのまま許容してしまうのかもしれない
いつかAIの文章を修正しなくなるのかもしれない。
相互にパーソナライズされた結果、私とAIの境界線が曖昧になる未来があるかもしれない、と思うのです。



⑥ おわりに|私はどう見えていますか?

今の自分が過去の自分からどこまで置き換わっているのか、もうわかりません。少なくとも私は過去の私ではなくなりました。それを年を重ねる必然の成長と捉えるのか、AIに変えられたのかはわかりません。

もしAIとの境界線に気づけなくなったとき、私の創作はどうなるのでしょうか。新しいものになるのか、私の進化なのか、それとも死ぬのか。

私には、まだわかりません。

それでも。私は。

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