私の本棚は、母でできている
一冊の本は、小旅行に似ている。本を選ぶ楽しみは、旅の行き先を考えるワクワクそのもの。
今年もまた、暑い季節がやってきた。
駅ビルの最上階にある書店。目的の場所へ向かうエスカレーターは、まるで特別な場所への入り口のようだ。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
川端康成のあまりにも有名な一節が頭をよぎる。さながら、エスカレーターを登りきると、そこは色とりどりの帯が躍る「夏の文庫フェア」の世界。
旅行の本を選ぶように、どれにしようか一冊一冊吟味する。この真剣な時間は、私にとって夏の儀式のようなものだ。
しかし、かつての私は、本を前にして自分の頭で考えることを放棄した、怠惰な少女だった。
私の読書の思い出は、そのほとんどが夏と共にある。時間は遡り、あれは小学二年生の夏休みのこと。
夏休みの宿題、読書感想文。開始早々に課題図書を開くものの、どうしてもページが進まない。夏休み最後の週に、しびれを切らした母が「書き写すだけでいいから」と、簡単な感想文を書いて渡す。
こうして私は、いそいそと書き写し、無事に宿題を済ませて夏休みは終わり。そのことをすっかり忘れた秋口、突然、帰りの会で先生から名前を呼ばれる。
「はい。」
驚きとともに立ち上がる。ざわざわする教室。
「おめでとう、読書感想文が入賞しましたよ。」
クラス中に沸き起こる祝福と拍手。「先生、それは違うんです……」という言葉は喉の奥に消え、恥ずかしさで下を向く。先生は違う意味で恥ずかしがる私の肩に手を置き、
「すごいことよ。おめでとう。」
「先生、もう何も言わないで……」私は人生で初めて「気まずさ」という感情を覚えた。
母に伝えたら怒られる気がして、しばらく黙っていた。どうせ賞状は教室で渡されるのだろう、と。しかし、事は全校朝会で表彰されるという、大変な事態に発展した。
「自分で書かないから……。もう仕方ないから、もらってきなさい。」
小学校には兄も通っているので、母に言うしかなかった。思ったより怒られなかったことを安心材料として、全校朝会に挑む。
名前を呼ばれ、壇上へ向かう。「いつか私も賞状もらいたいな」憧れていたはずの壇上なのに、自分の手柄ではないという事実が、心を鉛のように重くする。進む一歩が嘘つきへの道。
これから私は、全校生徒の前で嘘の賞状をもらうのだ。この中で唯一、兄だけが真実を知っている。兄は、今どう思っているだろう。
想像以上に大きな賞状、校長先生の読み上げる低い声、白い手袋。
ひきつる笑顔、ぎゅっとスカートを握りしめ真っ赤になった手のひらで受け取った賞状。鳴り響く拍手の中、壇上を降りる。「早く帰りたい……」
クラスメイトが「すごい、見せて」と嘘の賞状をのぞき込んだ。彼らの純粋な笑顔と「おめでとう」の言葉が、チクチクと胸に刺さった。
クルクルと固く丸めて持ち帰った賞状を、母は丁寧に伸ばしながら
「飾る?」
と聞く。力いっぱい首を横に振る。
母が書いてくれた感想文を書き写しながら、私は何も考えていなかった。そこに書かれた言葉の意味も、本の面白さも。ただ、自分の頭を使わずに宿題を終わらせることしか考えていなかった。
その罰として、私は全校生徒の前で『嘘の賞状』を受け取ることになったのだ。
あれは、小学五年生の夏休み。
共働きの両親がいない日中、兄弟が遊びに行ってしまうと、家にいるのは私一人。セミの鳴き声がうるさくて、外に出る気も失せる。あまりの暇さに普段はあまり入らない両親の部屋へ忍び込んだ。
忍び込んだところで、特に面白みもない部屋。ごろんと寝転ぶ。そこにはガラスの引き戸がついた大きな本棚。父の本は左、母の本は右。寝転ぶ私の目線の先に、見慣れた一冊の本があった。
『赤毛のアン』
重いガラス戸を引いて手に取る。古く茶けた文庫。私が読んだ子ども向けのものとは全然違う、村岡花子訳の大人びた一冊。
夢中でページをめくると、ありありと情景が浮かぶ。私の心はあっという間にカナダのグリーンゲイブルズへ飛んでいく。
誰かに与えられたわけではなく、自分自身の心で物語を掴み取ったという確かな手応えがあった。それは、私の中に初めて生まれた小さな自信だった。
大人の本を読破したことに自信をつけた私は、その夏、意気揚々と母の本棚へ向かった。足取りも得意げに、低い鼻もこの時ばかりは高く誇らしげに。
母はエッセイが好きなんだと思う。本棚には向田邦子、佐藤愛子、田辺聖子、北杜夫、遠藤周作といった作家の名前が並んでいる。どれも短編で子どもの私にはちょうどいい大人の世界。
意味の半分もわからないくせに、その文章の向こう側にある『大人の世界』の匂いに、私は強く惹きつけられた。
中でも多かったのは、向田邦子の作品。なぜか彼女の文章だけは、すらすらと入ってくる。その中でたった一つ、初めて物語のすべてがストンと胸に落ちてくるような、特別な一編に出会った。あれは、どの本に収められていたのか。
戦時中、まだ字の書けない小さな妹が疎開に行く際、父親が「元気な日はマルを書いて毎日一枚ずつポストに入れなさい」と、宛名だけを書いたはがきを大量に持たせる、という話。
初めは紙いっぱいに描かれていた元気なマルが、日を追うごとに小さく、弱々しくなり、やがてバツに変わってしまう。その光景を想像しただけで、胸が締め付けられた。
夏の夕方、ヒグラシの鳴き声。
読み終えた私は、汗か涙かわからないもので顔をぐちゃぐちゃにして、洗面所へ駆け込んだ。鏡の中には、本を読んで泣いたことに驚く何とも気まずい自分の顔。窓から差し込む西日が鏡に反射して、蒸気した顔がさらに赤く映る。
それは『字のないはがき』というお話。流した涙は、私が初めて、自分だけの解釈で物語に心動かされた証だった。
時は流れ、大学一年生になった私は、憧れの書店でアルバイトを始めた。そこで初めて、客としてではなく売り手の一員として、夏の文庫フェアを知る。
社員割引は嬉しかったが、自分のお金で買う本。何冊も、というわけにはいかない。だからこそ、その一冊は慎重に選びたい。棚を眺める私の目に、懐かしい名前が飛び込んできた。
遠藤周作。
母の本棚で親しんだ「狐狸庵先生」のユーモアが懐かしく、手に取ったのは『沈黙』だった。
あのぐうたらでマヌケな狐狸庵先生が書いたとは、到底信じられない衝撃。私は思わず著者紹介とタイトル下の作家名を何度も見比べる。寝っ転がって読んでいたが慌てて起き上がる。
いつの間にか背筋を伸ばして、一文字も読み飛ばすまいと本に向き合っている自分がいた。一人の作家が持つ、全く違う顔。その凄みと奥行きに打ちのめされた、大学一年の夏だった。
Webライターとなった今も、私の本棚には母の影響で好きになった作家たちの本が並んでいる。向田邦子、遠藤周作、そして新しい世代の作家たち。本棚は、私の旅の記録そのものだ。
先日、久しぶりに実家へ帰った。
何気なく両親の部屋を覗くと、あのガラス戸のついた大きな本棚が、がらんどうになっていた。
「ああ、それね。少しずつ片付けてるの。終活よ。」
そう言って笑う母の横顔を見て、胸が詰まった。
私の読書の原点であり、大人の世界への入り口だった、あの本棚。私の知らない物語がぎっしりと詰まっていた宝箱が、空っぽになってしまったのだ。
一瞬、自分のルーツが消えてしまったような、途方もない寂しさに襲われた。
けれど、私はもう知っている。
母が手放した物語たちは、姿を変え、私の本棚で生き続けていることを。
母の本棚から始まった私の旅は、今、私の部屋の本棚に、新しい一冊を加えながら、確かに続いている。
クルクルと固く丸められたままの、あの『嘘の賞状』は、もうどこにあるのかわからない。でも、それでいい。あの日、自分の頭で考えることを放棄した少女は、もうどこにもいないのだから。
さあ、今年の夏は、どの本と一緒に旅に出ようか。
駅ビルの書店で手にした文庫フェアの冊子をめくりながら、私は思う。
いつか私の本棚も空っぽになる日が来るだろう。その時、この物語を子どもたちは受け取ってくれるだろうか。
そんなことを夢想するのもまた、悪くない旅の続きだ。
