理不尽の中で、それでも自由でいること
真面目にやっていた人が割を食った。
詳しい事情は書かないけれど、周りから見ても明らかに不公平な人事だった。実力も実績もある人が、タイミングと政治力の差で評価されなかった。一方、要領よく立ち回った人が上に行った。
こういう場面、何度か見てきた。学校でも、会社でも。真面目にコツコツやることが必ずしも報われるわけではない。それを知ってはいる。知ってはいるけれど、目の前で起きると、やっぱり腹が立つ。
理不尽は慣れない。何回経験しても慣れない。
理不尽に直面したとき、人の反応はいくつかに分かれる。怒る人。諦める人。見なかったことにする人。そして「世の中そういうものだ」と受け流す人。
最後の「受け流す人」に対して、以前は冷たい人だと思っていた。諦めているだけじゃないかと。でも最近、少し見方が変わった。
受け流しているように見えて、実は受け入れた上で自分のできることに集中しているのかもしれない。諦めと受容は似ているけれど、全然違う。諦めは「もういい」と手を離すこと。受容は「これはこういうものだ」と認めた上で、次の一手を打つこと。
ストア哲学者のエピクテトスのことを思い出す。
エピクテトスは紀元1世紀の哲学者で、奴隷の出身だった。主人に足を折られたという逸話もある。自由どころか、体の安全すら保障されない境遇にいた。
その彼が言った。「自由とは、自分の力の及ぶことだけに関心を持つことである」。
外的な状況はコントロールできない。奴隷であるかどうか、主人がどんな人間か、足を折られるかどうか。これらは自分の力の外にある。でも、それに対してどう考えるか、どう反応するか。それだけは自分の力の中にある。
エピクテトスの自由は、鎖を外すことではなかった。鎖に繋がれた状態で、心だけを自由にすること。境遇は最悪だったけれど、心の自由だけは誰にも奪わせなかった。
現代の理不尽は、古代の奴隷制に比べればはるかに軽い。でも構造は同じだ。コントロールできないことに怒り、消耗し、何も変わらない。その繰り返し。
変えられないものに怒り続けるのは、自分のエネルギーを燃やし続けるのと同じだ。怒りの火は相手を焼かない。自分だけを焼く。
だからといって「怒るな」とは言えない。理不尽に対して怒ることは自然だし、健全だ。怒りが社会を変えることもある。
ただ、怒りを持ち続けるかどうかは選べる。怒った後に、次の一手に移れるかどうか。変えられないものへの怒りを、変えられるものへのエネルギーに転換できるかどうか。
それができている人は、表面上は「受け流している」ように見える。でも内側では、静かに戦っている。自分の領域で、自分にできることを、粛々とやっている。
それだけで十分、戦っていると思う。
