【滋賀】琵琶湖周りを巡る旅〜①石山寺・三井寺〜
※2024年5月の内容です
紫式部ゆかりの石山寺中心に、琵琶湖の大津エリアに行ってきました
雨の石山寺もまた風情があっていいですな
今年話題の大河ドラマ館のほか、平安時代から知られる歌枕や何度も歴史の舞台になった瀬田の唐橋なども一緒にまわっております



というか琵琶湖周りは長い歴史があり、御城や重要な拠点もたくさん、古典作品に「光る君へ」以外にも大河ドラマの舞台になったところもあちこちにあります
すごいな

野路の玉川(萩の玉川)
さて石山寺に行く前に草津市によっていきます
というのも、こちらに歌枕・六玉川の一つ、野路の玉川(萩の玉川)があるのです
草津駅には松尾芭蕉の像が
「おくのほそ道」の旅のあと、琵琶湖の膳所に暫く滞在。亡くなった後は大津市にある義仲寺に埋葬されています
琵琶湖の湖南エリアがとても気に入っていたようですね


芭蕉のお墓は、木曽義仲のお墓のある義仲寺にあるそうです

面白そうなところがたくさんありますね
さて六玉川とは…歌枕として和歌に詠まれた場所で全国に6箇所あります
東北の多賀城市にも野田の玉川があり、以前多賀城をまわる旅で寄っております
■六玉川(むたまがわ)
「六玉川」とは、歌枕として古くから和歌に詠みこまれた、全国の六つの玉川を指します。「玉川」という言葉は「美しく清らかな川」を指す美称です。調布(武蔵国)、井手(山城国)、高野(紀伊国)、三島(摂津国)、野田(陸奥国)、野路(近江国)の六つのうち「調布(たづくり)の玉川」が、今の多摩川にあたります。
[各玉川のキーワード]
調布の玉川―川にさらす布
井手の玉川―山吹
高野の玉川―旅人、氷
三島の玉川―卯の花、衣を打つ
野田の玉川―千鳥
野路の玉川―萩

●東北にある六玉川・野田の玉川
⚫︎野田の玉川
— るちあ@陸奥国 (@__luchia_) April 12, 2024
おもわくの橋の下を流れる小川が歌枕・野田の玉川になり、三十六歌仙の1人・能因法師の歌が書かれています
鹽竈神社で有名な塩竈市大日向から多賀城市街を通り、多賀城駅前を流れる砂押川に続く小川で、1992年に市の「水・緑景観モデル事業」の一環としてきれいに整備されました pic.twitter.com/J5fD1hhz1z
●野田の玉川のある、多賀城の史跡をたどる旅はこちら↓↓
南草津駅から5分ほどバスに乗り…つきました
野路の玉川です


住宅地に囲まれたこじんまりしたかわいい公園
すぐ近くに十禅寺川が流れています

実際にはこの十禅寺川が玉川と呼ばれていたようです
平安の時代から、秋には萩の花と水面に移る月が美しいと評判だったそう
膳所藩から移築された長屋門を持つ「白萩山 願林寺」が近くにあることなどから、この辺りは萩の名所だったことがわかります
鎌倉時代には源頼朝が逗留したり、東海道の途中のメジャーな宿場町として栄えていたようです
願林寺から続く、この公園前の道が昔の東海道のようです
なるほど~

ここで読まれた主な歌は、
明日も来む野路の玉川萩越えて色なる波に月やどりけり
源俊頼(千載集)
訳:明日も来よう、野路の玉川に。萩を越えて寄せる波に、花の色が映り、その波に月の光が宿っていることよ
「明日も来む~」の歌を詠んだ源俊頼は、隣郷田上(たぶん立命館大学があるエリア?)に山荘を持っていたほど、お気に入りの地域だったようです
このほかにも萩と月が読まれたものが多く、
歌川広重の「諸國六玉川・近江野路」にも萩の花が咲き誇る玉川の水面に移る月を愛でる様子が描かれています

雅な風景だなあ~
800年前もこんな感じだったんだろうか?絵は江戸時代のものですが、ビジュアルで残っていると、とても雅なイメージが伝わりやすいですね
瀬田の唐橋
また歌枕の場所をもう一つ、瀬田の唐橋にもよっていきます
瀬田の長橋として、長いものを表現するたとえになっているそう
平安時代の俵藤太こと藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説がある橋で、
歌川広重の「近江八景 勢多夕照」にも書かれた風光明媚な場所です

ちょうど工事中のようでした

明治時代まで、瀬田川にかかる唯一の橋として交通の要所でもあったそう
「唐橋を制する者は天下を制する」と言われ、何度も戦乱で焼け落ちている橋でもあります
古くは飛鳥時代の壬申の乱、その後は平安時代の源平合戦、鎌倉時代の承久の乱、室町時代の建武の乱、本能寺の変でも安土にまで明智軍が攻め入らないよう焼かれていたり…大変な目に合ってる橋だなあ…

銅像というより陶器でできた像のようです
素材なんなんだろう?

実際には室町時代まではもうちょっと南の位置にあったようですが…
ここが壬申の乱の合戦の場で、奥州藤原氏の先祖・藤原秀郷の伝説の場なのか~
いや~琵琶湖ってすごいな
教科書で見たことある事件や昔話が、いくつもここで起こったってことだからなあ
東北の民からしたら、歴史の舞台に何度もなっているところが地元の観光名所になっているのは、とてもうらやましいです
龍王宮・秀郷社
そんな瀬田の唐橋の近くにある龍王宮・秀郷社

龍王宮は瀬田川の龍神を、秀郷社には藤原秀郷がそれぞれ祀られています
龍王宮は、1545年近江の佐々木六角氏である六角定頼(六角承禎こと義賢の父)によって、唐橋が今の蛍谷公園あたりから現在の場所に移設された際、引っ越し期間中の神様の仮住まいの場として設けたのが由来だそう
六角氏は御先祖が宇田源氏で、京極氏・大原氏・高島氏と親戚になる一族です
道誉一文字の持ち主・佐々木道誉(京極高氏)とも遠い親戚になる間柄ですね
(2/2)
— 刀剣乱舞-本丸通信-【公式】 (@tkrb_ht) December 13, 2024
【新刀剣男士 太刀「道誉一文字(どうよいちもんじ)】
「どうも面倒事に巻き込まれやすい体質でねえ。だが、暴力は好まないから苦労するのさ。さて……、ビジネスの話をしようか」(cv.楠大典)#刀剣乱舞 #とうらぶ #新刀剣男士 pic.twitter.com/Tk4m4DwoUu
●宇田源氏家系図

治めていた地域は、
●六角氏:蒲生郡付近
●京極氏:坂田郡付近
●大原氏:高島郡付近
応仁の乱で対立したりもしますが、平安・鎌倉・室町まで、一族でぐるっと琵琶湖周りに勢力を持っていた一族なんですね

秀郷社は、1633年に蒲生氏郷の孫・忠知が瀬田を通った際、「秀郷社は自分の祖先なので、明日参拝する」といったことで、地元の人も御祭神が藤原秀郷だと分かったとのこと
さすがに800年もたっていると、由緒もわからなくなってくるお社があったんですね…
その後、龍王宮と並べて改めてお祀りしたのだそう
由来がわかってよかったね
また、その横の雲住寺には、退治されたムカデの供養堂があります
ムカデも供養されててよかったね


中を見ると、近江富士(三上山)を七巻半しているムカデが見えます
さて、いよいよメインの石山寺に向かいます!

紫式部にちなんで、駅舎が紫のカラーリング
柵も全部紫色。すごいな

駅前にはレンタルサイクル「コトバイク」が
京都を中心に利用できるレンタルサイクルがここでも使えるようです

石山寺郵便局のポストも紫式部
今年の大河ドラマ「光る君へ」にちなんでラッピングされたようです
書かれている文字は
「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく…」
(今夜は中秋の十五夜であったかと思いになって、宮中での音楽の会が恋しく思い出され…)
源氏物語十二帖「須磨」にて、配所の月を眺めるシーンの文章です
紫式部は石山寺にて、この一文を思いついたそう
ここから1000年残る長編物語が作られていくわけですね
「桐壷」から順序良く書いたと思ったら、そうじゃなかったんだなあ
石山寺
到着!
紫式部ゆかりの、文学と花の寺・石山寺です

●石山寺とは?
西国三十三所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、良弁によって開かれた。広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえている。国宝の本堂・多宝塔をはじめ、経典・聖教類、仏像、絵巻など多くの国宝、重要文化財がある。
奈良の大仏で有名な聖武天皇のころに建てられたお寺なんですね
大仏建立のための金の産出を願っていた聖武天皇が夢でお告げを聞き、その命を受けた朗弁僧正がこの地にたどり着いたところ、岩の上で釣りをしている老人がおり、ここがそのお告げの場所であると教えてくれたそう
この老人こそ近江の地主・比良明神であり、座っていた岩が比良明神影向石
その比良明神影向石、道のど真ん中にありますが…昔はここまで川があったのでしょうか?
境内には「しじみ貝塚碑」もあるので、もしかすると古代には川があったのかもしれませんね


また飛鳥時代の石切り場「天智天皇の石切り場」も発見されており、奈良時代より前から石山寺のある伽藍山で石材が調達されていたことがわかります


境内には四季折々の花がたくさん咲いていて、一年中色とりどりの風景が楽しめるそう
雪深い東北の民としては、冬も寒椿や山茶花、蝋梅が楽しめるのは贅沢な楽しみに思えますね。いいなあ
●東大門

入り口にとなる東大門
鎌倉時代に源頼朝の寄進により創建。慶長年間、淀殿によって大改修が行われ今に残っています
●多宝塔と硅灰石
参道を入って右手に見える階段登っていくと見えてくるのが…
石山寺の名前の由来となった、硅灰石と多宝塔
もともとこの伽藍山全体が霊石奇石の多い地域のようですが、特にこの場所が一番よく見える場所のようです
石山寺 硅灰石(いしやまでら けいかいせき)
国指定天然記念物
石灰岩が花崗岩との接触による熱変成作用をうけると、多くの場合大理石となりますが、一部には硅灰石となるものがあります。石山寺のように雄大な硅灰石は珍しく、境内のいたるところに露出していることから、石山寺の名前の由来となっています。
松尾芭蕉も、「石山の 石より白し 秋の風」と「おくのほそ道」で読んでいるので、本来はもっと白い色のようですね
往時の色味とはまた違っているのでなかなか分かりにくいですが…
この日は雨模様のお天気だったので、よけいに黒っぽくなっているのかな?


その上に見えるのが、現存最古で最も美しいといわれる国宝・多宝塔
1階が方形、2階が円形の建物で、本尊は快慶作の大日如来像
1194年の銘があるため、本当に鎌倉幕府が成立してすぐぐらいの時期なんでしょうね
このほかにも、硅灰石のある周辺には、文化財に指定された建物がいくつかあります
この敷地内に重要文化財たくさん。すごいな




●本堂
さて、いよいよ紫式部や道綱母、菅原孝標女など平安の文学者たちが参籠した本堂へ向かいます

内部は撮影禁止
本堂の前部分に礼堂があり、懸け造りになっています
懸け造りの様子がわかるよう、もうちょっと下の方で写真取っておけばよかったな…
というか増築されたこともあり、構造がいまいちわからん
見取り図が欲しい


あ、なるほど。こういう感じなのね
本堂は寝殿造のような構造
その前に増築された相の間と礼堂がある、という作りなんですね
本堂の真ん中に本尊の観音様が安置されていて、その周りに皇族の方など身分の高い人たち用のお部屋があるようです
平安時代の参籠では、基本的に本堂で雑魚寝
ご本尊がある周りのスペースで寝ていたみたいです…フローリングで冬は寒くなかったのかな?

「光る君へ」の最終回で登場した菅原孝標女が参籠した時の様子
うとうとしていると、内陣から観音様が麝香を差し出し、早く火をつけるようにと促したそう
位置的に「源氏の間」の反対方向のお部屋みたいですね
その奥の格子戸の前でみんな手を合わせていますが、お部屋が用意されない人々はここで雑魚寝
お布団も寝袋的なものもないのはちょっと寒そう
そこまでしてなぜ本堂で眠るのかというと、夢でお告げをえるためだそう
石山寺の由来も、夢で「琵琶湖の南に山があるからそこで祈りなさい」とお告げがあったことが始まりですし、このほかにも藤原道綱母や菅原孝標女など石山寺縁起絵巻には夢の中でお告げをえるというエピソードが多くあります
そのため本堂に籠って眠り、観音様が夢に出てきてくれることを願ったんでしょうね
夢が重要なポイントの一つになっているお寺だともいえます
なんかそう聞くと不思議で素敵なお寺ですね
●源氏の間
本堂の横にある火灯窓の奥
そこが源氏の間になります


紫式部はここから琵琶湖に映る月をみて、まず「明石」の帖の一節が思い浮かんだとのこと
先ほどの郵便局のポストに書いてあった一節ですね


私も紫式部の気持ちになって、琵琶湖の穏やかな湖面を眺め…

見えんやないかい!!!!!!
1000年もたつと緑の木々が生い茂り風情ある森の風景になるのか…
いやこれはこれで癒される光景でいいんですがね
多分位置的に見えたとしても瀬田川だろうな〜

また紫式部のお人形の隣には、以前はロボットのMURASAKIちゃんがいたそう
(今は豊浄殿の前にいます)
ロボホンやロビで知られるロボガレージの代表・高橋智隆さんが作成したそう
充電池のエボルタのCMで一生懸命ロープを登っている映像がイメージ強いですね
かわいい
どんな動きするんだろう?
ちょうど動いて話している動画がありました
へえ〜源氏物語のことを教えくれるのね
●紫式部供養塔・芭蕉の句碑
そんな紫式部の供養塔と芭蕉の句碑
紫式部の供養塔は重要美術品にしていされているとのこと。へえ~
平安時代後期~鎌倉時代初期の源氏供養のための塔でしょうか?
刀剣乱舞の舞台『刀剣乱舞』禺伝でも出てきた文化の一つです


芭蕉の句碑「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」
明け方の空が紫色に染まり、ほととぎすが鳴く光景と紫式部をかけた句のようですね
さらに上ったさきに芭蕉ゆかりの茶室・芭蕉庵があります
今日はあいてなかったけどこの位置なら眺めがいいだろうな~


●月見亭
そのお隣にあるのが、月見亭
源平合戦のころの天皇、後白河天皇行幸の際に建てられた建物で、近江八景「石山の秋月」のシンボルになっています
保元元年ってことは…保元の乱がおきたころあたりかな?
平家物語序盤ぐらい?


ちょっと天気が悪いので見通しはよくないですが…
ここからなら琵琶湖に映った月も見えそう
なるほど、紫式部の見た光景。こんな感じだったんだろうな~
●紫式部像

大河ドラマ館
石山寺の境内をぐるっと回って、大河ドラマ館へ
越前市武生にも行ってきましたが、そことはどんな違いがあるのかな?

こちらの大河ドラマ館ではまひろと清少納言がお出迎え

さらに、「五節の舞」のまひろの衣装が展示されていました
越前では成人式の「裳着の儀」の衣装がありましたが、こちらは五節の舞姫の時の衣装なんですね
なるほど。ドラマではなかなか見れない後ろ姿や裳の刺繍がよく見れて面白かったです



石山寺の大河ドラマ館には、恋するもののあはれ展が隣接しておりました
こちらは源氏物語で使用された色・香・花の文化の解説が興味深かったです
なるほど、色それぞれにこういう意味合いがあるんだね~


源氏物語の登場人物をイメージした色のカード
物語中のエピソードにちなんでいます




…「朧月夜」がさっぱりして爽やかな感じで、個人的には一番好みかな?
いや、これセンスが問われますわな
美的センスはもちろん、それにどんな意味があるのかなど、教養の下地がないとこれは難しそう
いつの時代もちゃんと勉強しなきゃだな…
またお花で占いができる「はなみくじ」も
スマホでQRコードを読み込んで、気になったお花を選びます


また石山寺で思い浮かんだ明石の一節にちなんだフォトスポットも


三日月さんに立ってもらいました
越前の大河ドラマ館の「想創庵」もきれいでしたが、こちらも楽しいですね
琵琶湖に浮かぶ月、いつか見てみたいなあ

「想創庵」
日が沈んでからの石山詣&お月見の宴はなかなか難しいですが、うららかな日の光を映した瀬田川を船で遊覧することはできます
石山寺の向かい・石山寺港から瀬田川をぐるっと周遊する「瀬田川・琵琶湖リバークルーズ」
国道422号線沿いには桜並木があるため、春の船旅はのどかなお花見ができそうです
春の季節も秋の季節も雅なお寺でいいなあ
また京阪電鉄で移動
三井寺駅をおり京都に向かう琵琶湖疏水をたどっていきます


桜の時期にはこちらもお花見が楽しめそうです
三井寺を目指しますが…まずこちらに寄っていきます
三尾神社
三井寺のある長等山の地主神・三尾明神を祀る三尾神社
うさぎの神社としても有名です
三尾神社の由緒
三尾神社は、貞観元年(859年)に三井寺園城寺の鎮守社として創建されました。
裏手の長等山(ながらやま)に、御祭神である赤尾神、白尾神、黒尾神の三尾明神が降臨したのが始まりです。


神様のお使いはうさぎ
あちこちにうさぎモチーフの絵や像があります
かわいい

…いや、周りの水しぶきの表現すごくない?
手水舎のうさぎさんは、元気のいいうさぎさんでした
これはこれで可愛い
三井寺
お参りをしたあと、三井寺の山門へ
正式名称は園城寺
「古事記」「日本書紀」の時代から1400年の歴史があり、「平家物語」「太平記」などの軍記物にも登場し、「雨月物語」「今昔物語」「徒然草」と
たくさんの古典や歴史物語に登場する一方、様々な戦乱にも巻き込まれた日本の歴史と共にあるお寺です
ユーモア溢れる動物や人々がかかれた国宝「鳥獣戯画」
その作者では?と言われている鳥羽僧正は平家物語の序盤の時代の園城寺長吏となります
保元の乱のちょっと前ぐらいまでご存命だったのかな?
臨時休館中ですが、特集「#鳥獣戯画展スピンオフ」の作品をご紹介します。
— 東京国立博物館 広報室 (@TNM_PR) May 28, 2021
「鳥獣戯画 甲巻(模本)」(山崎董詮模 明治時代・19世紀)は、兎、猿、蛙をはじめとする動物たちが生き生きと描かれる、国宝「鳥獣戯画 甲巻」の模本です。#東京国立博物館 #鳥獣戯画#MuseumAtHome #StayHome pic.twitter.com/VrbJVskh1U
天智天皇・天武天皇・持統天皇の産屋に使われた湧水があることから、「三井寺」と呼ばれています
最初に書いた瀬田の唐橋にて戦いが行われた壬申の乱で敗れた大友皇子の菩提を弔うため、息子の与多王が建立
正式名称の「園城寺」はこの時、天武天皇からもらったものだそうです
三井寺の由来について
三井寺(正式名称:園城寺)とは、天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の1つに数えられる由緒あるお寺。西国三十三所観音霊場の第14番札所である観音堂、近江八景「三井晩鐘」の鐘楼などに加え、多数の文化財も収蔵。さらに桜の名所としても知られ、多くの参拝客が訪れています。
天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝の誕生の際に産湯をつかった霊泉があることから、「御井の寺」という意味で「三井寺」と言われています。現在もこの霊泉はポコポコと祠の中で湧き出ており、その音を聞くことができます。
滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する三井寺は、正式名称を「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性により、天台別院として中興されました。以来今日まで続く千二百年以上の歴史の中で、源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられつつ、苦難を乗り越えてきた様から、「不死鳥の寺」としても知られています。
●仁王門


●金堂
こちらの金堂には、本尊が祀られています
秘仏として大事にされているため見ることはできませんが、4.85メートルの大きな菩薩様だそうで、胎内仏として小さな弥勒如来が収められています
この弥勒如来が、天智天皇が拝んでいた仏像だそうです
なるほど。お父さんの菩提を弔うために孫の与多王がおじいちゃんにあたる天智天皇の仏様をお祀りしたわけなんだね
このときは、内陣にて「百体観音」が特別公開されていました
日本百観音とは、西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所の観音霊場を合わせた総称で、江戸時代にはこのすべてを巡礼する旅が盛んになったのだそう
入り口でお浄めのお香とお経を読んでもらい、中の観音様を見せてもらいます

ちなみに今の金堂は豊臣秀吉の正室・北政所により再建されたものだそう
このほかにも、あちこちに戦国大名により建てられたものや寄進された建物がたくさんあります
すごいな
●一切経蔵
こちらの一切経蔵は毛利輝元により、今の山口県の国清寺から移築・寄進されたもの

また、先ほどの仁王門や唐院にある三重塔は徳川家康によって寄進されたものだそうです


●「三井の晩鐘」
また近江八景の一つ「三井寺の晩鐘」
この三井寺の晩鐘が、八景のうち一つだけ「音」を楽しむものとなっています
侘び寂びを感じる音なんでしょうね


へえ〜鐘は冥加料(みょうがきん)を払うと誰でも自由に鐘がつけるようです
セルフ鐘撞きで近江八景の音が味わえるということですね
●十八明神
この横にあるちょっとおどろおどろしい、お坊さんの格好したネズミさん
三井寺の伝説の一つ「頼豪阿闍梨」「鉄鼠」のお話にちなむものです
平安時代の中頃、三井寺に頼豪(一〇〇二~一〇八四年)という高僧がいた。この頃の天台宗は比叡山延暦寺を中心とする山門派と、三井寺を中心とする寺門派の二つに分裂し激しく争っていた。
その主な原因は、三井寺には正式に得度させる施設(戒壇という)がなく、また、戒壇には朝廷の許可が必要とされていた。朝廷に信の篤い三井寺にとって、それらを手に入れる事は長年の悲願であった。
(略)
この物語の主人公頼豪は…時の天皇であった白河天皇から皇子誕生の祈祷を命じられる。そのとき「無事皇子が生まれたら、お前の望みは何でも叶えてやる」との約束のもと、皇子誕生の祈祷をしつづけ、承保元(一〇七四)年、皇子敦文親王の誕生をみた。頼豪は褒美として三井寺の戒壇建立の願いを申し出たが、またも延暦寺の横槍がはいり、この約束は反故にされる。
(略)
このことを怨んだ頼豪は、自分の祈祷で誕生した敦文親王を、今度は祈祷で魔道に落とそうと断食に入った。やがて百日後、頼豪は悪鬼のような姿に成り果て憤死する。
そして頼豪は石の体と鉄の牙をもつ大きな鼠に化生。この鼠のことを頼豪鼠、または鉄鼠と呼ばれようになった。
(略)
鉄鼠と化した頼豪は生前の恨みを晴らすため、八万四千匹もの鼠の大群を率いて比叡山を駆けのぼり、延暦寺の仏像や経典を食い破った。頼豪の怨念の恐れをなした延暦寺は、日吉大社の東本宮前に『鼠の秀倉(ほくら)』という社を築いてその怨念を鎮めた。
滝沢馬琴もこの伝説をもとに「頼豪阿闍梨恠鼠伝」を書いています
本当にいろんな文学に縁のあるお寺なんですね


比叡山に押しかけた鉄鼠を祀っている十八明神
比叡山の方を向いて建てられているのだそう
なんともなあ…でも頼豪さんの気持ちもわからなくもない…
1000年経ってもこういう人の心に響く文学は変わらないものですね
今はもう平和の世なので、どちらのお寺も琵琶湖周辺の観光地として人気があり、今年は比叡山のスタンプラリーのスタンプポイントにもなっていたようです
比叡山も伝説や不思議なエピソードの多いところなので行ってみたいところです
●三井寺の昔話
もちろん怖い話ばかりではなく、
「平家物語」などの軍記物には、矢切の但馬こと五智院但馬、筒井浄妙、一来法師など勇敢な三井寺の僧兵が登場します
以仁王や源頼政の側で戦い、宇治川の橋合戦で活躍したお坊さん達ですね
【平等院鳳凰堂】
— るちあ@陸奥国 (@__luchia_) July 22, 2022
言わずと知れた10円玉の裏にあるあの建物です
また一万円札の裏にある鳳凰もこちらの屋根に乗っている鳳凰になります
獅子王くんのじっちゃんこと、源頼政の最期の場でもあり、
このすぐ横に流れる宇治川では宇治川先陣争いが繰り広げられるなど、平家物語の舞台にもなっています pic.twitter.com/bS1sNGueyn
筒井浄妙、一来法師は京都の祇園祭の山鉾の一つ・浄妙山のモチーフにもなっています
他にも、雨月物語の「夢応の鯉魚」など、三井寺の僧・興義が鯉に変身して琵琶湖を思うがままに泳いで楽しむ不思議なお話もあります
●霊鐘堂
そんな中世の「山寺両門の争い」の話の一つに、源義経の家臣といわれた弁慶も登場します
弁慶の引き摺り鐘
当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。 むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。

この釣鐘、先ほど寄った瀬田の唐橋にて、藤原秀郷が大ムカデを退治した時に、龍神から褒美に頂いた大事な鐘だそう
…それを持ってっちゃったんですね…
しかも谷底におとすとは…
そんな坊さんとしても罰当たりなことしてる弁慶ですが、そのあと源義経の忠実な家臣として「平家物語」で活躍するんだから世の中わからないものです



本当に引きずったようなひどい傷や割れた跡ががありますね
お家に帰って来れてよかったね


お話自体は有名なようで、よくモチーフにも使われているようです
金沢の兼六園向かいにある石浦神社、そちらの拝殿の上にある彫刻は、この「弁慶の引きずり鐘」が元となっています
拝殿前にある勾玉の形した石
— るちあ@陸奥国 (@__luchia_) December 31, 2023
真ん中にハートの石や勾玉たくさん散りばめられてますが…パワーストーン踏んじゃって大丈夫??石取れちゃわない?
また拝殿上にある彫刻
滋賀県の三井寺に伝わる「弁慶の引き摺り鐘」のお話にちなんだ彫刻だそうです pic.twitter.com/3a6nUoTGy7
どうしてこれを奉納したんだろう?ちょっとわからずじまいだったので気になっております


弁慶の汁鍋もありますが、こちらは江戸時代に観光用に使われたもの
この時代には人気の観光地だったんですね
庶民が旅行できるほど今と変わらず平和な時代になったのはいいことだなあ
●唐院潅頂堂
そんな三井寺の開祖・智証大師(円珍)の御廟が、ここ唐院潅頂堂
弘法大師こと空海と同じように香川県の生まれ…というか、お母さんが弘法大師の姪にあたる人だったようですね
空海は弘法大師とも呼ばれ806年に真言宗を開いた人物で、824年には京都の神泉苑で雨乞いも行ったそう
(神泉苑といえば863年に初めて御霊会が行われたところで、8月の刀剣乱舞のイベントでもキーワード的に出てきました)
水のない地に湧水を出した昔話など、日本むかし話ではおなじみの人物です
今の香川県で生まれ東大寺で受戒し正式な僧侶になった後、遣唐使に同行し唐の青龍寺で修行
そしてわずか2年で「金剛頂教」「大日経」の2つの密教の奥義をマスター
「伝法潅頂」にて正式な密教修行者となります
留学して2年で免許皆伝、ということでしょうね…相当な秀才か天才だったんだろうな…
\\奇跡の #神護寺展🍁//
— 創建1200年記念 特別展「神護寺ー空海と真言密教のはじまり」 (@jingoji2024) September 1, 2024
日本彫刻史の最高傑作、本尊「薬師如来立像」が目の前に!
国宝「薬師如来立像」は寺外初公開。
また、空海の弟子、真済(しんぜい)が実現した国宝「五大虚空蔵菩薩坐像」も五体揃っての公開は初めてです。
この、奇跡の場に皆さまも立ち会ってください‼️ pic.twitter.com/UEBzkHhrbm
↓↓空海と関わり深い「神護寺」展に行った時の様子はこちら
智証大師もとても優秀な僧で、のちに唐に渡り、弘法大師も学んだ青龍寺で「五部心観」を授けられます
この「五部心観」は国宝として今でも三井寺に大事に伝えられています

●村雲橋
智証大師の伝説はいろいろありますが、こちらの村雲橋にちなむ伝説が知られています
むかし、智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になって大変驚かれました。 大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。 早速真言を唱え橋上から閼伽水をおまきになると、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に飛び去りました。
のちに青竜寺からは火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたといい、 以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになったと伝えています。

そんな伝説の場所が実際に残っていると、なんだか身近に感じて不思議な気分です
ここから中国までどうやって?いや、自分の母校が火事になってたらそりゃ力になってあげたいもんね
遠く離れていても、地元や思い出の場所が災害に見舞われたら何かしら復興の手助けをしたいという気持ちは現代でも変わりません
ただスケールがものすごく大きいだけで…
また、文化財収蔵庫では国宝の仏像や曼荼羅のほか、智証大師の唐留学にまつわるものも
青龍寺で密教を伝授され、免許皆伝した時の免許皆伝証「青竜寺求法目録」や
大師が唐に渡った時の通行証明書、今で言ったらパスポートの「尚書省司門過所」も展示されていました
2通しか現存しない貴重なもので、国宝に指定されているそう
1200年ほど昔の、しかも海外で発行された文書がよく残っているなあ…
●観月舞台


そのまま観音堂に向かい、観月舞台へ
桜の特別公開の時期にだけ上に上がれるそう
床?にも桜の映る光景は写真でも有名ですね
一度見てみたいものです


どうもこの光景、明治時代からそんなに変わらないようで…
町の様子は変わりましたが、三井寺と琵琶湖の風景はいつまでも変わらないものなんでしょうね
明治時代に撮影された琵琶湖 pic.twitter.com/h9gd3gShfJ
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) December 20, 2024
長等神社
最後に山を下りたところにある長等(ながら)神社へ
長等神社のあゆみ
天智天皇が近江大津宮へ遷都(西暦667年)の際に都の鎮護として、須佐之男命を志賀の長等山岩座谷の地に祀られたのが始まりである。
天智天皇(西暦669年)五月五日天皇が宇治山科から帰途のおり当神社へ弓矢を奉納され、これにより大友与多王(天智天皇の御孫)がその日を祭日と定められて以来、 今も五月五日を例祭としている。
貞観二年(西暦860年)二月三井寺一山を開祖された智証大師(円珍)が日吉山王神を勧請し、一山の守護神として祀られ、新日吉社または新宮社と称するようになった。
・・・・・
こちらの神社も三井寺と縁のある神社なんですね


本殿の周りを囲んでいる回廊では、年齢の数だけ回ると美女祈願と魔除参りができるよう
せっかくなのでちょっとやってみました
実際に大人の人が年の数だけ回るのは結構大変なので、10歳分は1本としてちょっと簡易的にまわれるそう
これはありがたいですね

また平家物語にも登場する平忠度(平清盛の弟)の歌碑もあります
もともと長等山の山頂にあった歌碑をもっと多くの人に見てもらおうと、同じ物をこちらにも建てたとのこと
その当時から桜の名所であったことがわかる歌ですね
「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」
意味:琵琶湖にさざ波が立っているよ。志賀の都は荒廃してしまったが、長等(ながら)の山桜は昔と同じように、変わらずに美しく咲いているのだな
神社の境内にも見事な紅枝垂れ桜があったそうですが、枯れてしまった様子。今は新しい桜の木が植えられており、地域の皆さんに守られながらすくすく伸びているそうです
琵琶湖疏水や三井寺など周辺の桜と合わせてお花見の時期に来てみたいものです
また琵琶湖疏水は船で通って楽しむことができます
大津港から山科・蹴上に向かって船に乗って京都につながるようです
春と秋の季節にはとてもきれいな風景を楽しめるのだそう
また来たときには船に乗ってみたいな
御朱印もたくさんいただきました
石山寺も三井寺もたくさんのお堂があるので、それぞれで御朱印があったりしてとても充実しています
大津はいいところだなあ…春と秋にまた来てみたい
桜ともみじの季節、どちらもきれいなところだろうな~


●ボランティアガイド
石山寺や大津市、その他琵琶湖周りの観光地にはボランティアガイドもあるようですね
今度行ってみた時にはいろいろお話聞いてみたいな
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