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振り子の揺り戻し、の揺り戻し(書評エッセイ #2/聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化)

 「書評エッセイ」なる試みとして2回目となる今回は、『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』(渡辺裕/中公文庫)を扱う。これも前回同様大学の授業内で紹介された書籍である。前回は課題図書という形でどれか1冊読んでレポートを書いてね、という形であったが、今回はあくまで授業内の参考として紹介されただけであって、強制的に読まされたものではない。しかし、この授業(美学基礎の授業であった、気がする)の内容は残念ながらほとんど理解されなかったため、何か参考図書を読まないとレポートがまとまらない、という目的意識のもとこの本が選ばれ、読まれることになった。その授業は昼休み後の3限に行われるため、起き切ることは到底不可能だったのだ。無念。



ざっくり内容の要約

 はじめに、本書で述べられている内容を簡単にまとめておく。本書は、執筆当時の現在(本書は1989年3月に初版が発売され、2012年に文庫版が発売された)に「近代」を支えてきた価値観が崩壊しつつあるとし、暗く静かなコンサートホールで集中してクラシック音楽を聴く「近代的聴衆」が崩壊しているという問題設定のもと論が展開される。18世紀の演奏会は静まり返って一心に聴き入るものではなく、いわば「音楽のあるパーティー」のようなものであったが、19世紀に音楽文化の担い手が市民革命を経て貴族からブルジョワに映ったことをきっかけに、楽譜出版などの商業化を基盤とする「マス・カルチュア」が生まれた。それに対し、音そのものよりも音の背後に秘められている内容を解釈するといった「集中的聴取」が行われる「真面目な」演奏会も出現し、高級音楽と低級音楽の区別が生まれた。そして、高級音楽で演奏される「巨匠」の神格化が行われ、民族の英雄とするモニュメントが多数つくられたのも19世紀であった。
 しかし、1920年代に入ると電気録音技術などの複製技術が発達した上、コンサートホールなどの「非日常」と「日常」の境界があいまいになり、また、広告戦略が商品よりもその商品を持つというライフスタイルを提示するといったもの(自動ピアノの広告では、音楽のある家庭が表現された)に移行したことなどが影響を与え、19世紀を通して低俗とされてきた「ながら」の音楽体験が再燃し音楽が「トータルな体験」の一部となった。また、1920年代、サティのように日常音をコンサートホールの中に取り入れる前衛芸術家も現れた。
 そしてさらに、(執筆当時の)現在においては、メディアの発達により誰もが学者的な、「通」な「知られざる」音楽を聴けるようになったことで、音楽愛好家の間で「共通した音楽体験」がなくなり、「カタログ化」が進んでいるとしている。これによりかつては特権的な地位にいたベートーヴェンなどの「巨匠」が数ある作曲家の中の一人となり、「脱神話化」が行われたとしている。そして「通」な聴き方が誰もができることになったことは、同じ曲の異稿を比較して楽しむといった聴き方にも繋がった。また、必要に迫られて商品を買う欠乏の時代を脱却したことにより、CMは商品のイメージアップのためのものとなり、イメージソングなどで雰囲気を演出することを試みたことは、「おしゃれ」な音楽体験を提供するサントリー・ホールの登場も相まって(ボードリヤールの消費社会論的)、聴衆の音楽趣味や音楽観は企業の手に握られているとしている。また、今まで「真面目」に振りすぎた振り子の揺り戻しとして、「誰でも歌える」というコンセプトでクラシックの楽譜が売られたり、熱狂的な「ブーニン現象」が生まれたとしている。この振り子の揺り戻しにより音に秘められている内容を解釈する「集中的聴取」とは正反対の、全体の構成よりも細部を優先したマーラーの楽曲が流行し、またミニマルミュージックや環境音楽といった、次々と展開されるイメージに身をゆだねる、過剰な「意味」からはなれた、散漫で刹那的な「軽やかな聴取」にシフトしつつあるとのが(執筆当時の)現在の音楽聴取であるとしている。



現在←現在じゃない

 初版が発売された1989年という時代は、Z世代である私は生まれていないためイメージが湧かない。本書の中ではレコードについて述べられており、レコード中心の時代であったことはわかる。また、1996年に増補版として付け加えられた文章では、当時はバブルの時代で現在は終わった、する時代観が述べられていた。それでもまだ1980年代がどういった社会であったのかのイメージが湧かないため、私が愛してやまないプロ野球を調べてみた。すると、落合博満や桑田真澄が全盛期だったとのことが判明した。それにより一気に時代感覚が理解された。それと同時に、今(2026年)との隔たりも理解された。

(ガチの)現在を延長として捉える

 2026年現在は、本書執筆当時とは異なり、音楽を聴くために使われる主な媒体はレコードではなくスマートフォンであるし、主な情報メディアもテレビではなくスマートフォンである。つまりスマートフォンを手放せない生活を余儀なくされているのが、2026年現在であると言える。また、「ドパガキ」という言葉が生まれた通り、YouTubeショートやTikTokなどの1分前後に情報が詰め込まれた「縦型ショート動画」が我々若者にとって最も身近な情報源である。本書のテーマ「クラシック音楽の聴取方法」で2026年現在最も主流なのは、「縦型ショート動画」のBGMとしてなのではないか、と感じざるを得ない。それは1分前後という性質により、もちろんフル尺で聴かれることはなく、最も盛り上がる(ドーパミンが出る?)展開が激しい部分が用いられる。もちろん、冗長な音楽は見向きもされない。そういった状況が2026年現在の聴衆であると言える。コンサート・ホールに足を運んでクラシックを楽しむ人も、SpotifyやAppleMusicなどのサブスクサービスでクラシック音楽をわざわざフル尺で聴く人はかなり少数派であろう。


振り子の揺り戻し、の揺り戻し

 しかし、私は、かつて真面目に振りすぎた「集中的聴取」という聴き方が、振り子の揺り戻しとして散漫で刹那的な「軽やかな聴取」という聴き方に移行したのと同じように、散漫で刹那的な「軽やかな聴取」が、振り子の揺り戻しとして真面目な「集中的聴取」に再移行するのではないか、と考える。
 最近、映画館に足を運ぶ若者が増えていると言われている。もちろん、「国宝」などのヒット映画の影響もあるだろうが、半強制的にスマートフォンの利用を封じ込められる、「デジタルデトックス」の場として活用されているのだ。この効果は、コンサート・ホールでクラシックを聴く体験や、美術館でアートを楽しむ体験でも得られるのではないだろうか。振り子の揺り戻し、の揺り戻しとして「集中的聴取」が好まれ始めるのではないだろうか。事実、映画「国宝」は上映時間は2時間55分と、かなり長い映画であるが、それが若者にかえって好まれた。それはデジタルデトックスの場を求めているからであるだろうから、いわば「集中的鑑賞」が既に復権しつつあるとも言える。この流れは音楽も含む他の芸術にも波及し、ドパガキがドパオトナになるのを防ぐことになるだろう。

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