料理研究家という不思議な存在について
料理研究家という肩書きを、昔から少し不思議に感じていた。
研究、と言うからには、仮説があって、検証があって、再現性があって、その積み重ねがあるはずだ。けれど、料理の世界では、その「研究」という言葉が、どうにもふんわり使われているように見える。
料理酒は入れるべきか、入れないべきか。みりんは先か、後か。肉は火が通る前に味付けするな、という人もいれば、すぐに味付けしろ、という人もいる。灰汁は取れ、と言われてきたが、取らなくていい、という意見もある。
どれも、もっともらしい。そして、どれも、曖昧だ。なぜそうなのか。どれほど違うのか。条件を変えたとき、結果はどう変化するのか。そうした問いが、きちんと検証された形で語られている場面を、私はほとんど見たことがない。
料理は、官能の世界だ。美味いか、不味いか。好きか、嫌いか。その感覚がすべてを決める。だからこそ、論理や数値、検証という営みが、どこか野暮なものとして扱われてきたのかもしれない。
だが、それにしても、と思う。今は、温度も時間も成分も、簡単に数値化できる。再現実験だって、個人レベルで十分に可能だ。にもかかわらず、「昔からそうだから」「プロが言っているから」「感覚的にそう感じるから」という説明が、今も平然と通用している。
本当に、検証しているのだろうか。それとも、検証できるのに、あえてしていないのだろうか。もし検証すれば、意味のない工程は削れるかもしれない。無駄な手間は減らせるかもしれない。もっと合理的で、もっと再現性の高い調理法が見つかるかもしれない。それでも、料理は「感覚の世界」に安住し続けている。
もちろん、すべての料理研究家がそうだとは思っていない。中には、真摯に検証を重ね、理屈と経験を統合しようとしている人もいるだろう。だが、そうした姿勢が、少数派であるように見えてしまう現実も否定できない。
料理人という肩書きなら、何の違和感もない。
美味しいものを作る。それが仕事だ。
だが、研究家と名乗るなら話は変わる。研究とは、問い続けることだ。疑い、試し、確かめ、更新し続けることだ。「料理研究家」という言葉が、ただのインフルエンサー的肩書きになってはいないか。立派な言葉の裏で、思考と検証が省略されてはいないか。
料理は、もっと理屈に支えられていい。もっと検証されていい。もっと合理化されていい。美味い、不味いという官能の世界に甘えることなく、そこに科学と論理を持ち込んだとき、
料理は、今よりずっと自由になるはずだ。
そう思えてならない。
