ひとり社長の日報、はじめます。
世の中の起業家noteをスクロールしていて、ずっと違和感がありました。
書店の成功本も、SNSの華々しい起業家ポストも、よく読んだら全部「成功した後」の話なんですよね。「あの頃は大変でしたね〜」って語れるのは、いま大変じゃなくなった人間だけ。「いま、まさに失敗している人」の声は、どこにも落ちていない。
まあ当たり前ではあります。失敗談に需要があるのは、語り手がすでに成功した後だけ。現在進行形の失敗談はただの愚痴で、聞かされる側にとっては時間の墓場でしかないからです。
——ということを、わかったうえで、自分は今日からそれをやります。
なぜか。そのほうが、たぶん面白いからです。
自己紹介、というか自白
申し遅れました。まるやまと申します。職業、ひとり社長。
たった一人で会社をやっています。社員ゼロ。同僚ゼロ。クライアントは一応います。給料はまだありません。種を撒いた直後の畑です。
最初に、ひとつだけ事実を共有しておきたいと思います。
自分は、つい最近まで会社員でした。
しかも、それなりに名前の通った外資系IT企業にいました。大学を出て、それなりの会社に拾ってもらって、それなりの肩書きで、それなりの日々を送っていました。傍から見たら順調なキャリアに見えていたと思います。実際、自分でもそう思い込もうとしていました。
ただ、その「それなり」の中で、自分はミスを犯してしまいました。
詳細は書きません。書くべきでもない。ただ、そのミスがきっかけで会社員生活は終わりました。年明け早々、無職になりました。住んでいたアパートと、株でもらえるはずだった数百万円と、それまで「自分が誰か」を支えてくれていた肩書きを、全部いっぺんに失いました。
26歳の冬、人生でいちばん大きな置き引きにあった気分です。
会社員のうしろ姿が遠ざかっていく
無職になって最初にしたことは、品川区役所で国民健康保険への切り替えでした。
窓口で「失業しました」と言うのは、思っていた100倍くらい屈辱的でした。別に自分が否定されたわけじゃない。窓口の人が責めてくるわけでもない。にもかかわらず、なぜか頬が熱くなるんです。たぶん、これまで自分の中にあった「いい会社にいる自分」というプライドが、紙ペラ1枚に刺されて萎んでいく音を、自分の耳がはっきりと拾ってしまったからだと思います。
それからの毎日は、転職エージェントとの面談、コンサルファームの面接、Webテスト、自己分析シート、そういう「就活の完全再放送」みたいな日々です。
しかも、まあ、これが受からない。
完膚なきまでに受からない。
一次面接でやり直しを食らい、二次面接で「あなた、面接に受かろうとして喋ってませんか?」と詰められる。失礼を承知で言うんですが、面接で受かろうとせずに喋っている人類が地球上にいるのか、と聞き返したくなりました。聞き返さずに「すみません、本音で話します」と言ったんですが、本音で話したらそれはそれでだいたい落ちました。世の中、よくできてますね。
さすがに、ちょっと考え直しました。
「働きたくない」と「働かないと社会が許してくれない」のあいだで
正直な話を書きます。
自分は、別に働きたいわけではないんです。
「なぜ御社を志望するのですか」と聞かれて、本音で「お金が欲しいからです」と答えたら、確実に落ちます。だから「貴社の事業に強く共感し、自身の経験を活かして〜」みたいな、誰の本音でもない言葉を、いかにも本音っぽい顔で紡ぐ訓練をします。それを面接官は鋭く見抜いて、「綺麗な言葉ですね」と言って落とす。
——いや、お前らがそう言わせとるんやろがい。
と言いたくなる場面が、転職活動には大量にありました。
ただ、面接官側にも言い分はあるんでしょう。経営者の立場になれば、「働きたくないけど金欲しいんで来ました」と言うやつを採るわけがない。それも理屈としてはわかります。
つまり、世の中は「働きたくないけど、働かないと社会が許してくれない人間たち」のための、壮大な茶番ステージなのです。志望動機をでっち上げるのも、それを見抜いて落とすのも、両方ともこの茶番の構成要素です。茶番を茶番だとわかりつつ、舞台に立たなければ生きていけない。これが資本主義の優しさであり、残酷さなんだと思います。
で、自分は、舞台から降りることにしました。
降りた先で何があるのかも、まだよくわかっていません。
「何者か」になりたい、という言葉について
最近ずっと考えていることがあります。
「何者かになりたい」というフレーズが、この世代で異常に流行っています。自分も過去に何度か口にしたことがあるし、いまでもその欲望は腹の底にしっかり居座っています。
ただ、よくよく考えると、このフレーズは厳密には変なんですよね。
いま、この文章を読んでいるあなたも、書いている自分も、もうすでに「何者か」ではあるわけです。
どこかの市町村に生まれて、どこかの学校に通って、どこかで誰かに振られたり、どこかで誰かに救われたりしてきた、固有の経歴を持った人間です。「何者でもない」状態の人間など、生物学的に存在しません。
じゃあ、なぜみんな「何者かになりたい」と言うのか。
たぶん、正確に翻訳すると、こうなんじゃないかと思っています。
「他者から見て"すごい"と思われる、再現性のない要素を持った人間になりたい」
これです。「何者か」は、「他者から見たすごさ」と「再現性のなさ」を兼ね備えた状態のことを指している。長すぎるから略されているだけなんじゃないかな、と。
ここまではわかる。
問題は、その先です。
「再現性のないものを目指すための、再現性のある方法」はあるのか
学歴も、出世も、年収も、フォロワー数も、本質的には再現性のある勝負です。再現性があるからこそ、塾もセミナーも参考書もコンサルも商売として成立しています。
ただ、再現性のある勝負には、決定的な欠陥があるんですよね。どこまで行っても上がいるということです。
東大に入ったら東大卒の起業家がいる。外資系大手に入ったらBig Techがいる。Big Techに入ったらBig Techを辞めて成功した同い年がいる。これは一生終わりません。終わらないどころか、上が見えるたびに自己肯定感が削れていく仕組みになっています。実体験です。
じゃあどうするか。
再現性のないものを目指すしかない。「人と違うことをしろ」というやつです。
ここで多くの自己啓発本は、得意げに「自分の好きなことをやろう」「常識を疑え」みたいなことを言って店仕舞いを始めます。でも、本当に難しいのはここからじゃないか、といつも思っています。
なぜなら、「再現性のないものを目指す」という行為そのものに、再現性のあるルートが存在しないからです。常田大希にはなれない。ひろゆきにもなれない。あの人たちの人生をなぞっても、なぞった人間にはなれても、その人にはなれません。これが「再現性がない」ということの本当の意味です。
——だから、自分は、こう問いを立て直したいと思っています。
「再現性のないものを目指すための、再現性のある方法」は、あるのか。
これ、矛盾しているように聞こえますよね。でも、たぶんあると思っているんです。 だってそうじゃないですか。世の中に「すごい人」と呼ばれる連中は、一定数存在しています。あの人たちが全員偶然そうなったとは思えない。何かしらの構造があるはずです。要素を分解して、自分に当てはめて、試して、外して、また組み直す。それを何百回もやれば、たぶん何か出てきます。
それを、毎日ここに書きます。 それが、この日報の中心テーマです。
何を書いて、何を書かないか
毎日、こんなことを書いていきます。
今日の数字(売上・稼働時間)。盛りません。1円単位で
今日した判断と、その理由
失敗。「学び」と言い換えません。失敗は失敗です
たまに本の感想
たまに他社事例へのツッコミ
たまに、世の中への小さな違和感
逆に、書かないこと。
「夢」を語ること。夢は心の中にしまっておくものだと思っています
「PDCA」「シナジー」「アジャイル」みたいな成功者カタカナ語。これ系を多用する人の話は、たぶん中身が薄いです
「読者の皆さんへ」みたいな上から目線のメッセージ。自分は自分の日報を書くだけです。読むかどうかは自由
1年後の目標
1年後、このnoteと X (@maruyama_net) のフォロワーを、それぞれ1万人にします。
達成できるか?正直、まったくわかりません。
それでも宣言する理由はひとつだけで、宣言しないと本気でやらないからです。人間は弱い生き物です。退路があると、必ずそっちに逃げます。自分は特にそうです。だから先に退路を断っておきます。これは合理的な自己管理術であって、決して承認欲求の発露ではありません。発露ではありません。大事なので2回言いました。
達成できなかった場合、そのことも全部ここに書きます。 言い訳しません。数字で逃げません。 これがこの日報の、自分への約束です。
最後に
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。
世の中には、もっとためになる起業ブログも、もっと前向きなnoteも、もっと役に立つビジネス書もたくさんあります。
それでもこんな辛気臭い独白を最後まで読んでしまったあなたとは、たぶんどこかで気が合うんじゃないかな、と思っています。
明日から、毎日更新します。 更新が止まったら、燃え尽きたか、夜逃げしたか、品川区役所の窓口でまた違うものに切り替えに行ってるか、のどれかだと思ってください。
……まあ、悪くない始まりです。
まるやま X (@maruyama_net)
