ダウ90000『ロマンス』 ―令和の男性像とクリエイター論―
これまで「ヨネダ2000と名前が似ている大所帯集団」という認識しかなかったダウ90000。私はなぜ意味もなくこの8人組を視界の外へ追いやっていたのかと、後悔の念を押し殺す年の瀬。蓮見翔さん、ごめんなさい。
ダウ90000『ロマンス』の配信は12月31日23時59分まで!!延長したらしいですね!
https://officekanibubble.zaiko.io/e/roman-senyu

ダウ90000による第7回演劇公演『ロマンス』(2025)は、過去の実体験をドラマ化することになった冴えない脚本家と、それを演出するプロデューサーと役者、さらにそのドラマを配信で観る視聴者たちの数日間を描いた群像劇。2025年だからこそハマる固有名詞やあるあるを挟みながら、とある偶然に巻き込まれた脚本家は、創作によって自身の過去を塗り替えることになる。
この作品は個人を描き、他人を描き、社会を描いている。まず脚本が丁寧で秀逸。各登場人物や細かい設定が、取りこぼしなく物語の中で機能している。伏線というより、人生という偶然と必然の連続から生まれるなんとなくの因果に翻弄されながら、物語は展開される。
令和の男性像
主人公の脚本家は、弱々しい。なよなよしている。恋愛弱者。社会的な地位も不安定。未来の展望もあるんだかないんだかわからない。こうした男性像は、最近では「弱者男性」、もっと加害性が強まると「インセル」などと暴力的に呼ばれたりするかもしれないが、私はちょっと違う見方をしている。
『愛がなんだ』(2019)や『街の上で』(2021)などで知られる今泉力哉監督の作品群、あるいは坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』(2021)は、平成〜令和の若年男性像を鋭く捉えてきた。男女のサブカル、恋愛、コミュニケーション、労働、趣味を通して現代の社会を描き、観客もそれを求めるブームが数年前にあったわけだが、令和も7年が終わろうとしている現在、さらにアップデートされた令和最新の男性像/女性像を描く作品は、それほど出てきていないように思える。
唯一思い当たるのは、三宅唱監督の『夜明けのすべて』(2024)や山中瑶子監督の『ナミビアの砂漠』(2024)くらいだろうか。しかし『夜明けのすべて』は男性像/女性像を描くというより人間2人のケアの話になっているので(PMSなど女性固有の話はあるが、それと女性像の描き方は別)、男性像/女性像を一新したという意味では、『ナミビアの砂漠』の河合優実演じる主人公カナの方が衝撃は大きかった。
かたや、ピンとくる新たな男性像は最近発見できていない(自分が男性であることも当然関わっていると思う)。ちなみに、今泉監督と山中監督の『セフレと恋人の境界線』は観ていないので、そこで新しい何かが描かれていたら申し訳ない。
では、令和7年の男性像はどうなっているのか。特に、「弱者男性」やら「インセル」やら「チー牛」やらと雑にまとめられてネットミームにされる、モテない若い男性像。
『ロマンス』の主人公には、この男性像の新たなリアルがあると私は思う。作品の中では、モテないだとか見た目が不恰好だとかいろいろ言われているが、コミュニケーションは丁寧で、ちゃんと意思も決断力もある。たまに勘が悪くて空回りもするが(実はここが今作の肝でもある)、誰よりも誠実な印象は受ける。昨今言われる「弱者男性」の実像は、実際のところはこんな主人公的な人物像ではないだろうか。
2025年邦画界最大の曰く付きの作品、大九明子監督の『今日の空が一番好き、と言えない僕は』(2025)を割と私が擁護するのも、似た男性像を主人公から感じ取ったからである。萩原利久演じる小西は、暗にHSPの症状が描かれているので言葉を選ぶが、言ってしまえば冴えない勘違い男子大学生である。これだけでは典型的な若年「弱者男性」っぽいが、そうでもない。この作品からは、今泉監督作品からサブカルとセックスを抜いたような、どこか清々した印象を私は受け取った。
最近は若者の恋愛離れが進んでいると言われる。マッチングアプリの熱が冷めつつあるとも先日耳にした。今年、望月智充監督の『海がきこえる』(1993)がリバイバル上映されて若者を中心にヒットした背景にも、「高校生の男女がただ数日行動を共にするだけ」という直接的な恋愛描写がないがゆえの安心感があったと、個人的には思っている。『今日の空が一番好き、と言えない僕は』も、勘違いと偶然だけで物語が進んでいくので王道の恋愛映画ではないし、同じように『ロマンス』の主人公も、話題にあがる過去の女性と恋愛関係にならなかったことが話の鍵になっている。(←ここだけネタバレしてしまいました。すみません。ただ、重要だけど重要なネタバレではないです)
ここまで書いてきて、つまり「令和の男性像」=「今泉力哉作品からサブカルとセックスを抜いたもの」と論じたい感じになってしまったが、そう結論づけるのは時期尚早。奥山由之監督の実写版『秒速5センチメートル』(2025)の松村北斗演じる遠野も考えるべきだろうし、抑えきれない性欲と向き合う貧困青年が主人公の『劇場版 チェンソーマン レぜ篇』が快活に受け入れられた事実もある。
なので雑なまとめとして、「令和の男性像」を考える上で鍵となりそうな作品を私が2つ選ぶとしたら、ダウ9000『ロマンス』と『今日の空が一番好き、と言えない僕は』になる、ということだ。
令和のクリエイター論
リアリティーショー然り、演出されているものを視聴者が演出とわかりながら楽しむムードもずいぶん広がった。元プロデューサー/ディレクターの佐久間宣之や高橋弘樹の動画コンテンツは今やエンタメと言論の最大メディアとなり、箕輪厚介は相変わらず大人気で、「水曜日のダウンタウン」(「名探偵津田」の国民的ヒット)を藤井健太郎の番組として認識する人も増えた。松本人志がプロデューサーとしての手腕を発揮して「DOWNTOWN+」を始めたのも最近のことだ。
プラットフォームやコンテンツの変化もあって、これまでは「裏方」や「仕掛け人」と呼ばれていたようなプロデューサー/編集者というポジションの人たちこそ一流の「出役」であることに、今はもはや誰も異を唱えないだろう。
つまり、いろんなコンテンツ制作で「セルフ・コンサル」(≒「一人電通」)が求められるようになると、視聴者の関心の比重は、それが「どんな」コンテンツかではなく、「どのように」作られたコンテンツかに移る。『ロマンス』に登場するドラマのプロデューサーは、古くからのステレオタイプな業界人あるあるっぽい感じで演じられてはいるものの、視聴者の期待の変化によって、そのあるあるがどこか新鮮に受け取られることもあるだろう。
コンテンツの演出そのものを楽しむ時代。今回の作品は、そのタイトルが示唆している通り、生物(なまもの)であるはずの日常の「ロマンス」がどのように創作され演出されうるのか、その様を浮き彫りにしている。
立場上、事を荒げないためだけに「無」の会話をするプロデューサーは戯画的に描かれるが、これも令和的だ。最近、他人の発話に対してすぐに「間違いない」と返す対話をよく耳にする(目にする)が、個人的にもどかしい。あなたは肯定モードのチャッピーではないのだから、ちょっとでも疑問に思ったら「んー、どうですかね」と返してほしい。大丈夫、怒らないから。
なるべく他者に介入せず、円滑にコミュニケーションを終わらせるためだけの会話は増えた。たとえば、複数の推しの界隈が交わるとき、執拗に他界隈を刺激しないように心がけ(「他界隈から失礼します」的なノリ)、何かのきっかけでひとたび火がつくと一気に炎上する現象に顕著だ。だからこそ、自我を殺して場を回すことを期待されているプロデューサーの本音が漏れた「こういう時、働かなきゃって思っちゃう自分は、あんまり好きじゃないです」という台詞は、笑いにもならないリアルな「異物」として、観客に居心地の悪さを与える。
令和のプロデューサーは、どう働くか。Vaundyの「まず生活を捨てた方がいい」という発言が先日話題になったが、令和の秀逸なクリエイターたちは生活を捨てているか否かで二分されている。個人的な観測域から例を挙げると、生活を捨てているのがVaundyやMrs. GREEN APPLE、かたや生活と寄り添っているのが星野源や宇多田ヒカル。当然、彼らのキャリア形成の段階の差異はあれど、働き過ぎている人はとにかく働き過ぎている(「働いて働いて働いて働いてまいります」...)。
創作と生活が地続きどころではなくなり、創作が生活を飲み込んでいく。生活すら創作物と化す。『ロマンス』には、生活と創作のある種のそういった禍々しさや美しさが内包されていると思う。令和のクリエイターはどう生きていくべきなのか。そして創作はどうあるべきか。『ロマンス』はこういった大きな話につながる可能性がたくさん隠されていたと、私は見ている。
最後に。来年公開の是枝裕和監督の実写版『ルックバック』が「令和のクリエイター論」の映画になっていることを、ほんのちょっとだけ期待している。
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