楽しい時間は、長い。
インターネットのなかった子ども時代を生きた。
田舎の小学生だった私の “確かな“ 情報源といえば、親と先生と、本しかなかった。
子どもというのは、多くのものを抱えているのに、武器も防具も、どうぐもあまり持たされずに生きていると思う。
今の子はわからないけれど、少なくとも昭和の頃はそうだった。
なんだかあまりにも、世間に、世界に、さらされていた。
小学生の定番の宿題のひとつに、「夏休みの思い出」を書く作文がある。
幸い、その夏はいろいろと連れて行ってもらい、書くことはたくさんあった。
紙幅の限りに書き連ね、最後の感想を数行、というとき。
とても楽しい思い出が、思い返すとこんなにもたくさんあった夏休みだった、と思った。
小学生の私の脳内には、とても上映時間の長い「夏休みの思い出」が再生され、原稿用紙2枚ではとても書ききれないほどだ。
行った場所それぞれの景色の、看板や道、樹木や木陰、水の流れや光の角度、母の祖母の笑う声、その日の私の視線の行くすべて……
だから、こう書いた。
「とても楽しくて、思い出のたくさんできた、長い夏休みでした。」
後日採点されて帰ってきた作文用紙には、先生の赤字がこうあった。
「楽しい時間は、あっという間に過ぎるものですよ。」
『長い』の部分には、赤で波線が引かれていた。
おかしいな、と、はじめて世界に対して違和感を持ったのを憶えている。
たしかに夏休みを長く感じているのに、私の「夏休みの思い出」の上映時間はこんなにも長いのに、それを『あっという間』と書くのが正解だと、先生が言う。
だったらそれは、きっと正解なんだろう。
私は、黙った。
――いま思えばそれは、私の「映像記憶」のせいだった。
私は思い出を、頭の中で写真のようにアーカイブしている。
ひとつ選んでそこに降り立てば、そのときを映像のように追体験できる。
それが楽しいほど、思い出の中のときは隅々まで鮮やかに流れ、“再生時間“ は長くなる。
そもそも「あっという間」とは、その時間軸にいた時点で感じることだろう。
現在の私にとっての夏休みは、すべて思い返すにはとても時間のかかるほどの質量がある思い出だ。
これが「あっという間」のわけがない。
むしろ、つまらなかった時間は記憶に残っていないから、あとから振り返れば「あっという間」だ。
……いや、これもまた、少し変わった感じ方なのかもしれない。
なにが “ふつう“ なのかについては、いつだって敏感なのに、いつだって自信などない。
そうあやふやに思っても、いまの語彙があれば『長い』の代わりに、『充実した』とか『濃密な』と表現して、さして問題にならないようにやり過ごすことができる。
それが大人だ。
でも子どもには、そのどうぐがない。
反論するための武器もない。
いわれのない否定から身を守る防具もない。
傷を受けて、口をつぐむしかなかった――
それでも、この感覚はまちがっていないと思っていたし、それを捨てることはしなかった。
ただあまり人には見せずに、隠し持って生きてきた。
ときどき「よく憶えてるね」と言われるくらいの器用さで、なんとかうまく渡り歩いてきた。
映像記憶やギフテッド性について調べ、自分の特性をようやく理解できるようになるうちに、こんなふうに過去に「おかしいな」と思った場面はすべて、こういう齟齬から起きていたのだとわかるようになった。
まちがってなかった。
おかしくなかった。
すこし違うだけだった。
「ギフテッド」という言葉も浸透しはじめて、今の親や社会はむしろ、子どもの可能性や特異性を掘り起こすことに夢中なようにもみえる。
是非はともかく、そういった “少し違うもの“ が “あるもの“ として受け入れられるのなら、それは少しやさしい世界かもしれない。
少なくとも、特異性が赤字で直されることのない世界になってきているのなら、子どもの頃の私を、時代のせいにして置き去りにしなくてもいい。
迎えに行って、まちがってなかったよとようやく抱きしめて、それでも捨てなかったことを褒めてあげたいような、そんな、気持ちにもなる。
あわせて読みたい:
