思考かなづち
とくにお気に入りというわけでもないのだけれど、ウィトゲンシュタインを読んでいる。
正確には、野矢茂樹氏のウィトゲンシュタインに関する本を何冊か、ぐるぐると繰り返しながら読んでいる。
そうして読んでいると、すこしずつらせんを描くようにして、理解が深くなっていくような気がする。
実際のところはまだあまりピンときていないのだけれど、"気がする" というのもけっこう重要だと思っている。
だから哲学においてはとくに、新しい本を読むよりも、同じ本をくりかえし読んでいる。
そうしていると、言語をひろう網目がしだいに細かくなっていき、以前ひろえなかった言葉をこころに留めることができるようになる。
こうしていつか本せんぶをこころに留めてしまいたいと願うのは、叶わぬ夢なのだろうか……。
ウィトゲンシュタインは、哲学的思考をすることを、たびたび「水泳」に例えたという。
人は、放っておけば水に浮かぶ。
哲学的思考をすることは、自らの意思で努力して深く潜ることだと。
いい例えだ。
しかし、私はかなづちだから、放っておいたら沈んで死ぬ。
そう思ったとき、これまでずっと私の中にあったある疑問が、ふと浮かびあがってきた。
「なぜ私は、すぐに哲学的思考に陥るのか?」
答えは簡単だった。
私は、思考も "かなづち" なのだ。
本来、深く考える必要のないことに立ちどまり、つい深く考えてしまう。
放っておくと沈んでいってしまうので、水面に顔を出すために、きっと答えを探している。
そういえば、よく人から「深く考えすぎ」と言われる。
そのまんまじゃないか。
まわりの誰がみてもわかりやすく、私の思考は溺れているのだろう。
かなづちがバレバレなんて恥ずかしい。
けれどこれは、生来の哲学者の素質と考えればすごくかっこいいから、そういうことにしておきたい。
ウィトゲンシュタインも、哲学問題に足をひっぱられて思考の海に深く沈むことに抗えなかった。
きっと苦しかったろう。
でも、これはある種の病なのだという。
哲学問題を "哲学的病" とし、その病を治療することが哲学であると、彼は説いた。
哲学を終わらせたかった人だということを考えると、すごく腑に落ちる。
この世の病がなくなることなどないのだけれど、その根絶を信じて、答えを探しつづけた。
かならず、水面に顔を出すための答えがあるということなのだろう。
その答えはたとえ暫定的なものだとしても、息継ぎとしては立派に機能する。
ウィトゲンシュタインも、ときに主張を変えたし、あれは息継ぎだったのだな、と考えれば納得もいくのだった。
この病は、治るのだろうか。
それぞれに抱える問題は違うのだから、治療法はひとりひとり違っている。
それぞれに答えを探すしかない。
深く潜ることは苦しみをともなうし、水面に顔を出そうともがくことはそれ以上に苦しい。
けれど、そのいとなみのすべてはとても人間らしく、生きていることの輪郭をつよくなぞることにほかならない。
だから私は、思考かなづちであることで、今日も生を実感する。
生きていくことの手触りをまるで贈り物のように感じながら、手のひらにたしかめる。
これが私のありかたなのだと半ばあきらめながらも、その人間らしさに少しの誇りをもって。
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