「どうして、あなたはコメントを書くの? (7月22日)」
*
あなたは、ここ《note》で思いの丈を綴られている。
その記事には、あなたのお話を楽しみにされている方がおられて、『スキ❤️』や『コメント』をくださる。
入れてくださった『スキ❤️』や『コメント』をたどって、その方の元へもお邪魔することができる。
「今日は、何を書かれておられるのかしら?」
そんな興味や好奇心、あるいは「毎度ありがとうございます」というご常連さまへの感謝の気持ち。
そんな温かい想いを胸に、誰かのページを訪問されたご経験は、あなたにもおありかと思います。
*
note運営さんが言うように、心動かされる素敵な作品に巡り合ったとき。
『スキ❤️』だけではとても感動を表しきれなくて、コメント欄に高ぶる気持ちを綴りたくなりますよね。
うなずきの『分かる〜❤️』を超えた、まさに“我が意を得たり”の共感。そんな特別な気持ちを添えたくて書くコメント。
そのあたりは、私もまったくの同感で、共感した記事には、得られた感動やお礼の気持ち、さらには「何がどう良かったのか」という細かな想いまで伝えたくなってしまう。
結果、ついつい「長文にて失礼します」と、心で詫びつつ、思いの丈をつれづれと綴ってしまうのです。
*
でも時々、少し残念に思う光景をコメント欄で見かけることもある。
それは、『コメント返し』という日本人らしいお返しの優しい心根に、SNS特有の効率化文化が混ざり合って生まれたもの。
わずか二、三行。それも、まるでAIが代筆したかのような、体温を感じない「定型構文」の並び。
けれど誤解しないで欲しい。
「我が意を得たり!」「合点しました!」「お説ごもっともで、もはや付け足す言葉もありません」
そういう意味での短文なら、よく分かる。むしろ、そこに言葉を重ねてしまうのは「屋根の上に屋根を建てる」ようなもので、冗長に過ぎるというものだ。
私が寂しく、残念に思うのはそこではない。
肌の下に血の巡りを、そして人の体温をまったく感じさせないコメント。
それがたとえ私に向けられたものではなくても、どこか切なくなってしまうのだ。

*
私は、noteでの作品は、書き手の願いや想いに読み手の心の琴線が震え、互いの思考が美しいハーモニーを響かせて初めて「完全なる円」になるのではないか、と思っている。
「愛の対岸に佇むのは、憎しみではなく『無視』だ」と言われる。
人は周囲ともたれ合い、支え合うことで、どうにか生きていける生き物だ。
そのことは、このnoteの世界でも同じではないだろうか。
――あなたはどう思いますか?
それに、これは心を込めてしっかりとコメントを綴ることでいただける、オマケ程度のご褒美なのだが……。
投稿者の想いに寄り添い、言いたいことを真っ直ぐに汲み取った反応は、同じように真摯に記事を書いている、他の素敵なクリエイターさんの目にも留まるものなのだ。
「あら、このコメントにも共感するわ、スキ🩷」
そんな小さなきっかけが、ひいては良き“ご縁”となり、かけがえのない同志(仲間)との出会いにもつながっていく。
だからこそ、コメント欄を単なるルーティンとして軽く扱ってはいけないのだと、私は強く感じる。

*
しかし、誰もが生業(なりわい)を持ち、家事もこなし、なけなしの貴重な時間を使ってnoteを楽しんでいる。
その限られた時間の中で、親しい方全員に笑顔を向け、しっかりとしたコメントを記すことがいかに難しいかも、よく分かっているつもりだ。
だからこそ、そんな慌ただしい生活の中で、私はお付き合いのための“お返しコメント”をあえて諦めている。
その代わり、「これは是非とも共感の熱い気持ちを添えさせてください!」と、心が震えた作品にだけ一点集中して、しっかりとコメントを残すようにしている。
浅くて淡白な、わずか数行のコメントを、AI処理のように大量配布したとしても、きっとお相手の心には一瞬しか残らない。
それはまるで、酷暑の夏に一瞬だけ降ってすぐに止み、その後には強い日差しで跡形もなく乾いてしまう、あの“泡沫(うたかた)の雨”のようなものなのだから。
*
私は、同じ時間をこのnoteで過ごすのであれば、大勢の方と一瞬だけすれ違うような場所にはしたくない。
もしかしたら、この先に永いお付き合いになるかもしれない、かけがえのない誰かと。
「親密で、心のこもったやりとりをしたい」
――そう、心から願っている。
今日も、良い一日になりますように。
(🎹MIYABI)
いいなと思ったら応援しよう!
ご支援くださり、ありがとうございます。くださったチップは、楽譜やご本の購入代金に使わせていただきます。