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黄金の頽廃

黄金期──とりわけ文化の黄金期──とは、すなわち頽廃の予兆である。時代が移ろいつつあるとき、傾きかけた日差しは必ず黄金色の光を放つ。
ペリクレス然り、ロレンツォ・デ・メディチ然り、ウィーンの分離派然り。絢爛華美をきわめた文化のあとには、往々にして執念深い理性の復讐が待っているわけだ。

アテネの民主政を完成に導いたペリクレスこそ、最初に民衆扇動者デマゴーグと呼ばれ、間接的にであれペロポネソス戦争の原因を作った人物ではなかったか。
ロレンツォ・デ・メディチについていえば、軽妙洒脱な文化人としてルネサンスをヨーロッパに広めた立役者でありながら、舞台裏じゃあ家計は火の車だった。そうして死後には、フィレンツェの落日と、新たな時代精神の夜明けを招かずにいられなかったのだ。
分離派もそうだ。保守的な美術への反発が分離派を生んだのは、元来モザイクのような中東欧で、まさに一民族一国家の嵐が吹き荒れだした頃ではなかったのか?

黄金は富の象徴であるがゆえに、豊かさの印象と下品で汚い成り上がり者の印象を併存させているのだ。「豊かであるに越したことはない」といったその口で、人は金ぴか時代を揶揄する。成金趣味を嘲るのである。いみじくもフロイトが「貨幣は排泄物のパロディである」と言った通りに。

想像してほしい。現金を触ったら、手を洗いたくならないか?
金は私の手元に来るまでに、無数の人の手を経てきている。途中でどんな衛生観念のやつが触ったか、わかったもんじゃない。クソを垂れたあとに手を洗わないような人間の手も、確実に通ってきているだろう。

それに富自体、不浄から生まれてくるのだ。晩夏、黄金色に実ってこうべを垂れる稲穂や麦穂を養ってきたのは、土だ。堆肥であり糞尿だ。さらにもとを辿れば、殺され食われた生き物の死骸である。
ハーバー・ボッシュ法だろうが事情は変わらない。空気中にあろうが地上にあろうが、どのみち地球上の物質の総量は決まっているのだ。何かが生まれるときには、その体を形作るための余剰の物質がいる。そしてその余剰は、何かがバラバラに分解されたことで初めて生じるものである。
結局すべての新しい生命は、古いものの死を糧にしている。死骸と排泄物なくしては、新しい豊かさは生じ得ない。

宝石についても事情は同様である。宝石に価値があるのは、埋蔵量に限りがあるからだ。貴重だからだ。
つまるところ、価値を生むのは希少性であり──その略奪である。限りある価値を略奪できることが権威の証になる。金襴緞子で身を飾るのはその表徴だ。
希少でないものは価値を認められにくい。希少であり、奪うに値するものこそ価値の具現化である。富の背後にはいつも「奪われたもの」がいる。

加えていえば、「黄金」が往々にして爛熟期や暗黒・・時代の重要なモチーフとなっているのも興味深い。たとえば中世ヨーロッパの宗教画は、金色によって記号的に聖性を表現した。金属質なまでに金ぴかの光背や、金色の背景はこの時期の絵画の特徴である。
そして中世は、事実かどうかはおくとしても、多かれ少なかれ不毛な暗黒時代とみなされてきたわけだ。後世の人間の目から見た解釈だから、当時を生きた人間には不当と感じられるだろうが。

TURINO VANNI《The Baptism of Christ》

中世絵画の金色も、単色ベタ塗り、記号的な「わかりやすい」聖性の表現である。それは訓練を必要とする技巧(遠近法、光学、寓意……)とは別の体系に属している。
この手の絵画は、人間の創意工夫によってではなく、金という物質そのものの力によって鑑賞者に信仰を喚起させてしまうわけだ。だから見ようによっては、技術=知性をバカにしているようにも思えるのだろう。

さて、現代を生きる人間の目は、黄金のうちにわずかな暗さを見てとる。
それはぴかぴかと光って、下品なまでに目立っている。汚らわしいほどに輝いている。富は不浄から生まれ、俗世をわたって手垢にまみれてきたのだから。
しかし黄金はまた、乱痴気騒ぎのあとの衰退の予感をもはらんでいる。理性と義憤と妄執に喰らい尽くされたあとの王の惨殺死体が予告される。

黄金という記号には、絶頂と破滅という両義性がある。なぜだろうか。

金銭欲に支配された下等な人間が支配階層にいることへの、冷笑と失望ゆえだろうか。黄金の眩さは、それ以外の微妙な色彩をべったりと塗りつぶしてしまう。それを気にもとめない、美的な鈍感さと形式主義への冷笑だろうか。つまり、頂点に上り詰めた人間には必ずや落ちぶれてほしいという気持ちである。嫉妬だろうか。
思えば、爛熟した文化が地に落ちるのは、狂気ではなく理性によってではないのか? 富み、でっぷりと肥り、鈍感になった人間への復讐心を指揮するのは、いつだって理性だ。

あるいは、黄金の下品なペンキ性を悟り、頽唐の気配を感じとりながら、そのまま美しく衰退していくことを願う滅びの美学だろうか。美への耽溺だろうか。
馬鹿げていると知りつつ、いっそ、何もかもを黄金に──下劣で厭うべきものだからこそ、それはかえって美しい。
ミダス王になって、愛する人を彫像に変えてしまって、誰もいない黄金の城で独り、涙を流して黄金を呪うという陶酔のきわみ。周囲の人間は誰も、自分の切実な苦悩を理解しないだろう。むしろ「贅沢な悩みだ」と一笑に付すに違いない。なんと孤独な。それゆえに絶頂なのだ。玉座に座れる者は一人しかいないのだから。

黄金・文化・美は滅びの序曲だが、ゆえに理性の暴虐に対抗する勢力になれる。黄金は絶頂の中に破滅を予示しているというより、破滅の定めにあるからこそ絶頂たりえたのだ。
だって、滅びゆく運命を悟りながら我が世の春を謳歌するのは、愚か者のやることじゃないか。合理的じゃない。普通の勤勉な人間は、そうなる前に行動するものである……
だからこそ、合理性に縛られた人間にとっての黄金は、唾棄すべきものでありながらなお妖しい輝きを放つのだろう。そうして人は歪んだ道徳を形成するわけだ。

金銭を追い求めるのは俗物だ、拝金主義者だ、下等な人間のすることだ。そんな奴は破滅するに違いない。しかし金とは、問答無用の価値ないし価値の象徴であり、追い求めるべきものでもある。
だからひそかにこれを追い求めるのは合理的であり、理性的人間としてはむしろすべきことですらあるのだ。では、こっそり金を集めまくろうじゃないか。
いいや、金銭欲がまったくないと思われると、それはそれで求めるべき価値のわからぬバカだといわれるから、こっそり金儲けする様子をあえて周囲に見せつけよう。へっへっへ、私は俗物でね、金がもらえればそれでいいのよ……

こうして黄金の重力は、理性をも呪いの中に引きずり込んでいくのだ。
しかし実のところ、黄金を呪ったのは理性である。

自らが呪った相手に抱擁され、堕ちていくとき、だから理性は恍惚とするのであろう。

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