MEGUMIは片岡鶴太郎である――アツアツおでんの過去上等
連載第4回:ヒントは見立てが9割
MEGUMIは片岡鶴太郎である
MEGUMIは、片岡鶴太郎である。
「多才さが似ている」といった表層の話ではない。
むしろその逆で、彼らを結果的に多才たらしめた
“成り上がりの考え方”が、奇妙なほど一致しているのだ。
出自はそれぞれ、
イエローキャブのグラビアアイドルと、カラダを張ったお笑い芸人。
どちらもスタイリッシュとは対極にある、
大まかには「見世物」の文脈だ。
アツアツおでん。
悩殺ビキニ。
観客の下世話な欲望を、そのまま受け止める装置としての身体。
だが、意外だが、おそらく二人とも、それが嫌で嫌でたまらなかった。
彼らは、受け手が想像する以上に、
自分が思う「素敵な自分」になりたかった。
けれど、求められる役割に応え続ける限り、その像には近づけない。
つまり彼らにとって、元の路線では
「成功」と「ナルシシズムの充足」は両立し得なかった。
売れれば売れるほど、なりたい自分から遠ざかる。
それは「甘酸っぱい思い出」などではない。
むしろ、何度でも夢に出てくるような「忌まわしき過去」だったはずだ。
だからこそ、ある時期からの方向転換は、極端になる。
鶴太郎は、画家になり、書家になり、ボクサーになった。
MEGUMIは、俳優業を軸に、カフェ経営、プロデューサー、ジュエリー、美容、スキンケアと領域を広げていく。
あまりにも分かりやすく、あまりにもストレートに、
「あちら側」に行こうとする意思。
「あちら側」とは
男性でいうと、脱サラして作務衣を着て長野で蕎麦を打つ。
女性でいえば、おおまかに「ヨガ」が象徴するもの。この「ベタさ」。
そこには、「過去を塗り替えたい」という祈りにも似た衝動がある。
アツアツおでんも、悩殺ビキニも、なかったことにしたい。
あるいは、なかったことに「しなければならない」というオブセッション。
もちろん表面的には、それは非の打ちどころがない人生に見える。
確立した地位に甘んじることなく、常に新しい挑戦を続ける。
アップデートされ続ける自己。
だが、その運動は、どこかで息苦しさを孕む。
なぜなら、「すべてを手に入れよう」とすればするほど、
「手放そう」としているものが、背後から追いかけてくるからだ。
追いかけてくるのは、消そうとした過去そのものだ。
それって、見ていてかなり息苦しい。
そして、その息苦しさは、きっと本人が一番よく知っている。
ほぼ仙人のような風貌になった現在の鶴太郎に、
「どこいこうとしてんの?」とツッコむのは残酷だ。
本人が一番聞きたいのだから。
最近の象徴的な場面がある。
高市総理とMEGUMIとの面会だ。
世界情勢が不安定なこの時期に、あえて指名される存在であるということ。
それは単なる偶然ではない。
裏を返せば、そのイメージが「必要とされた」ということだ。
最前線で活躍し、輝いている女性。
努力と変化によって、自分を更新し続けてきた存在。
それは、いまの高市総理が欲している“物語”そのものだ。
このままいけば、MEGUMIは政界入りを目指すだろう。
自民党からの推薦。そして、おそらく当選する。
ただし、そのとき彼女が背負うものは、単なるキャリアの延長ではない。
それは、「過去と現在をどう統合するか」という、
さらに大きな問いに向き合うことになる。
アツアツおでんも、悩殺ビキニも、ヨガも、カフェも、
スキンケアも えんとつプペルの声優も、
それらすべてを含めて「これが自分だ」と言えるかどうか。
“なかったことにする”ために、ここまで来た。
だが本当は、その逆なのだ。
なかったことにしない覚悟だけが、最後に残る。
愛は、本来、誰かから与えられる“恵み”ではない。
最後に、自分で自分に与えるしかないものだ。
「誰かのMEGUMI」は愛じゃない。
与えられるのではなく、 自分の中に、すでに愛は無限にある。
視点を変え、それに気づくかどうか。
掴み取るものではなく、もともと持っているものなのだ。
それが証拠に、MEGUMIを逆から読めば、こうなる。
I-MUGEM。愛、無限。
つまり、LOVE上等だ。
