オスティナート・リズム 第48話:壊したって言う人だいたいまだ直したい人だよ
「これが…高橋健一さんの、今の住所だと思う」
リズムは、画面に映る古い住宅の写真を見つめていた。
都内の下町。
母・律のノートに残されていた手がかり、メイの調査と合わせて導き出した場所だった。
写真の中の門は少し傾いていて、表札の文字はかすれている。
でも、家の前に伸びる細い道だけは、なぜかはっきり見えた。
そこへ行けと言われているみたいに。
「本人かどうか、確証はないけど…」
リズムの声が、ふっと細くなる。
怖いからじゃない。
大事な答えに近づくほど、声は小さくなる。
「でも、確かめたいんだよね」
メイの声が、優しく響く。
通話じゃない。隣にいる声だ。
短いのに、背中を支える力がある。
リズムはうなずいた。
「母の設計が改ざんされた理由を知りたい。そして信じたいの。母の仲間が、ほんとうは全部、敵だったわけじゃないって」
言い切ると、胸の奥が少し痛い。
でもその痛みは、進むための痛みだ。
夕方、二人はその住所へ向かった。
空はまだ明るいのに、影が長い。
商店街のシャッターが半分だけ降りて、焼き魚の匂いが風に混じる。
靴の音が、石の道に小さく返る。
リズムはその音で、自分が逃げていないことを確かめる。
足が前に出ている。ちゃんと。
アンが、リズムの一歩先を歩く。
尻尾は高くない。
今日はふざけない日だと分かっている歩き方だ。
でも、時々だけ顔を上げて、リズムを見る。
大丈夫かって言う代わりに。
その視線が来るたび、リズムは口の中で小さく数える。
1回息を吸って、1回吐く。
息が戻ると、胸の痛みが「前へ」の形になる。
錆びた門扉。
小さな庭には枯れかけた鉢植えが並び、風鈴の音がひとつ、揺れていた。
チリン。
その音だけが、ここに人の時間が残っているって教える。
門の前で、リズムの指先が冷たくなる。
ドアノブじゃないのに冷たい。
緊張は、体の先から来る。
アンがそっと前に出て、インターフォンに鼻で触れる。
「ピンポーン」
静寂。
誰も出てこない。
風鈴だけが、もう一度だけ鳴る。
リズムは息を飲む。
ここまで来たのに、空っぽだったらどうしよう。
母の怒りも涙も、置き場所がなくなる。
もう一度押そうとしたとき
「誰か?」
中から、掠れた男の声がした。
かすれているのに、鋭い。
喉の奥に長い沈黙が詰まっている声。
玄関の奥の暗さから、声だけが引っぱり出されたみたいだった。
「高橋健一さん、でしょうか」
リズムが慎重に声をかける。
慎重だけど、弱くはない。
扉の向こうにいるのが誰でも、逃げない声。
母のノートに触れた手で、今は扉の向こうに触れに行く。
戸が、ゆっくりと開いた。
そこには、痩せた白髪の男が立っていた。
目の下には深い影。
けれど、どこか優しさが滲んでいた。
手が少しだけ震えている。
寒いからじゃない。名前を呼ばれたからだ。
袖口が少し擦り切れていて、指の関節に細い傷が見える。
長い間、何かを作って、何かを守ろうとしてきた手。
「律の娘さんか?」
リズムは息をのんだ。
「母を知っていたんですね」
男はしばらく黙っていた。
沈黙が、門の錆みたいに重い。
やがて、絞るように呟いた。
「おれが、律の夢を壊した」
重い言葉が、夕暮れに落ちた。
落ちた瞬間、地面が少しだけ傾いた気がした。
でもリズムは踏ん張る。
ここで倒れたら、母の夢まで倒れる。
アンが小さく「ん」と鳴く。
怒ってる鳴き方じゃない。
リズムの足首に、ここにいるって印をつける鳴き方だ。
そして、ムードメーカーのやさしいツッコミを一滴だけ落とす。
「壊したって言う人、だいたいまだ直したい人だよ。口が先に謝って、心があとから追いつくタイプ」
男が一瞬だけ目を伏せる。
その一瞬が、答えの入口だった。
そして男は、扉を少しだけ広く開けた。
通していいのか迷いながら、でも通したい人の動きだった。
つづく
