オーシャン・ドッグスⅡ🐶 第18話:ヴァルヌ・アトラに会え
青黒かった龍石の脈が、ゆっくりに変わる。
谷の空気がひとつ深呼吸をしたみたいに、温度が少し戻った。
アンは光を落とした。
焼け焦げひとつない。
「よし、傷は増やさず用件は果たした。次は帰す番や」
りうが状況を締める。
「……大事なもんは、焼かんと残るんや」
アンが肩で息をつく。声は低いけど、芯は熱い。
半魚人の長が、背をまっすぐにして近づいてきた。
単眼はもう、冷たい鏡ではない。
「我らはアトランティスの血を引く。海の奥に沈んだ都の遠い子。黒い海竜の声が、心の拍へ鉤をかけた。助けてくれて、礼を言う」
長は深く頭を下げた。
「人質の場所を案内する。先に戻すのは、家族だ」

案内は速かった。
横穴の縄は湿っているのに、固くはなかった。
「あったかい順で起こす。手のひら、胸、腹や」
ルナが手順を通す。
「ママ!」
「パパ!」
泣き声と笑い声が混ざり、親指グーがいくつも上がる。
ビノードの屋台隊は入口で温かい列を作り、蒸したてのモモと甘いキールを配る。
「おかわりは親指グーな」
リッチーが笑うと、子どもたちの指がいっせいに立った。
湯気が白い夜を、あったかい色に塗り替えていく。
「犬が来たから、だいじょうぶって思った」
小さな声がアンの胸に落ちる。
「正解。だいじょうぶ、続けよ。帰ったら“モモ乾杯”や」
アンは尾で合図した。
「乾杯ってジュース?」
「今日はミルクのキールで乾杯。おかわりは、そう、親指グーで」
半魚人の長は、龍石の前で立ち止まり、うつむいた。
「これはもう、我らの石ではない。黒い声の“電波塔”。心を曇らせる悪い鏡だ」
ディーバが
「オン・マニ・ペメ・フム」
と短く唱え、水の面を薄くかけ、火の線で周囲の崩落だけ切り離す。
「悪い鏡は、覆えば見えなくなる」
アンが頷く。
「封じたら、次の“持ち主”に会いに行くんやな」
半魚人の長は、谷の下手を指した。
「インド洋の長、ヴァルヌ・アトラ(ヴァル)に会え。この海で何が動いているか、彼は知っている」
「覚えた。ヴァルにな」
りうが短く答える。
長はもう一度、深く礼をして、仲間とともに水へ戻っていった。
水面は一度だけ丸くひらき、すぐに山の闇へ溶けた。
静けさが戻ると、祠の鈴がまたひとつ鳴る。
ディーバはアンたちに向き直った。
「力は刃になる。刃は誓いで鞘に入れる。君らは刃を鞘に入れられる。だから、教える価値がある」
「教えて。拍(2-1-2)で“結び目”を解く方法。火は線で切って、水は面で守る方法。真実の光を、もっと遠くまで届かせる方法」
アンが言う。
「3日で“鈴の10課”。それに“6音の稽古”を重ねる。オン・マニ・ペメ・フム、息と拍で刻め。夜明けから始める」
「急ぎは山ほどやけど、急ぐために学ぶんやな」
りうが口角だけ上げる。
「まずは食べて、温まって、寝る。順番は“あったかい順”」
ルナが笑った。
子どもたちが真似して頷く。
あんこは端末を耳に寄せる。
「高杉サチエ総理、聞こえますか?人質は解放、負傷は軽微。龍石は封じ。インド洋の長ヴァルへの連絡線を探します。それと、カトマンズの夜間回廊、あと1晩だけ延長を」
返事は短く、力があった。
「了解。あなたたちの拍に合わせる」
夜がほどけていく。
祠の鈴が風に揺れ、谷の逆拍(1-2-2)は跡形もなく消えた。
残るのは、犬たちと人の2-1-2。
アンは谷の出口へ歩き出しながら、振り返らずに言う。
「海からでも、川からでも、道がなくても行く。うちらは“渡す側”や」
東の空が、山の縁でうす金にひらいた。
次はディーバの下で“鈴の10課”と“6音の稽古”。
そして、ヴァルの待つ海へ。
拍はそろっていた。
2-1-2。
つづく
