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アン、今日もフラれたな🍙第23話 輪島の黒い漆と今日を塗る職人

1月中旬。

福井県から石川県へ入る日本海沿いの道は、空も海も同じ鉛色をしていた。

チリン。

大和風太郎が、自転車のベルを鳴らした。

「石川県、入ったでぇ!」

冷たい風が日本海から吹きつけた。

雪は上から降るのではなく、横から飛んできた。

風太郎の頬を細かな氷の粒がたたく。

「よっしゃ。ここは景気づけに『能登半島』や」

風太郎は鼻歌を歌い始めた。

夜明け間近
北の海は波も荒く
心細い旅の女
泣かせるよう

ところが、強風で声は後ろへ吹き飛ばされ、音程だけが妙な方向へ曲がっていく。

自転車の前かごに取り付けられた黒いキャリーの中で、赤いバンダナを巻いた柴犬アンが耳を伏せた。

「風より、おまえの歌のほうが耳障りや」

「能登へ入る旅人には、旅情が必要やねん」

「旅情より防寒せえ。鼻水出てるで」

「これは涙や。能登の美しさに感動して」

「鼻から感動が出るか」

突風が吹いた。

自転車が横へ流された。

「うおおっ!」

風太郎は片足をついた。

ズボッ。

靴が、道路脇に積もった雪へ深く沈んだ。

雪の下には水がたまっていた。

冷たい水が、靴下まで一気に染み込んだ。

「冷たあっ!」

「輪島に着く前に、足だけ漬物になりそうやな」

風太郎は濡れた足を振りながら、自転車を押し始めた。

道の先には、雪をかぶった黒い屋根が並んでいた。

除雪された道路の両脇には、灰色がかった雪の壁が続いている。

遠くから、重機の音が聞こえた。

その向こうでは、日本海の波が低くうなっていた。

風太郎は、しばらく何も言わずに歩いた。

アンも黙って海を見ていた。

やがて、風太郎が小さくつぶやいた。

「寒いな」

「冬やからな」

「腹減ったな」

「それは年中や」

風太郎の腹が鳴った。

グウウウウウ。

雪の積もった町へ、妙に元気な音が響いた。

「まず俺の生命を復旧させなあかん」

「おまえの腹だけ、毎日全壊してるな」


輪島の町には、明かりの戻った建物があった。

仮の場所で店を開き、魚や野菜を並べている人たちもいた。

けれど、通りを1本入ると、景色は変わった。

空き地。

工事用の柵。

雪をかぶった壊れた壁。

建物があった場所に残された基礎。

風太郎は、明かりのついた店を見て言った。

「だいぶ戻ってきてるんやな」

アンがキャリーから振り返った。

「見えてるとこだけで決めるなよ」

風太郎は口を閉じた。

その直後、干物の焼ける匂いが流れてきた。

「アン」

「なんや」

「今、海が俺を呼んだ」

「干物や」

人の声がする建物の中へ入ると、そこには魚の銀色、大根や白菜についた土、赤や黒の漆器が並んでいた。

湯気の立つ鍋の前にいた女性が、雪まみれの風太郎を見た。

「兄ちゃん、寒そうな顔しとるね」

「顔だけやなくて、全身が寒いです」

「ほんなら、これ飲んでいきま」

差し出されたのは、温かい魚の汁だった。

器は、黒い漆の椀。

風太郎は両手で受け取った。

見た目より軽かった。

外側は、雪の光を吸い込むような深い黒。

内側は、赤みを帯びた朱色。

椀の薄い縁が、唇へ柔らかく触れた。

風太郎は、一口すすった。

「あったかぁ……」

冷え切った身体の中心へ、湯気が落ちていった。

風太郎は椀を傾けた。

黒い表面に、白い雪明かりと自分の顔がぼんやり映っている。

「これ、きれいやな」

女性が笑った。

「飾りもんやないよ。毎朝使っとる椀や」

よく見ると、椀の縁には小さな修理跡があった。

「ここ、直してあるんですか」

「昔、欠けたげん。直して、また使っとる」

アンが椀をのぞき込んだ。

「おまえより長く働いてそうやな」

「器に勤続年数で負けた」

「おまえ、会社はすぐ辞めたしな」

「辞めたんやなくて、逃げたんや」

「胸張って言うことちゃうで」

女性は声を出して笑った。

温かい汁を飲んだことで、風太郎の腹は余計に空腹を思い出した。

香りを追うように町を歩き、たどり着いたのは「かど長食堂」だった。

店の中には、仕事着の人たちが肩を寄せ合うように座っていた。

窓の外では、また雪が強くなっていた。

風太郎は財布を開いた。

小銭を指で数えた。

もう一度数えた。

裏返して振った。

何も出なかった。

「カツ丼1つください」

アンが足元から見上げた。

「おまえだけか」

「アンの分は持ってきた犬用ごはんがある」

「人間用の備蓄は?」

「夢と希望」

「食物繊維すらなさそうやな」

風太郎は、作業着姿の初老の男と相席になった。

男は疲れた顔で、チャーシュー麺を食べていた。

風太郎の前へカツ丼が置かれる。

「いただきます!」

次の瞬間、風太郎は猛然と食べ始めた。

カツ。

米。

玉ねぎ。

またカツ。

まるで丼の中へ顔から突っ込むような勢いだった。

向かいの男が、箸を止めた。

風太郎は男のチャーシュー麺を見た。

大きなチャーシューが浮いている。

男の手元を見た。

またチャーシューを見た。

男がため息をついた。

自分の丼からチャーシューを1枚取り、風太郎のカツ丼の上へ載せた。

「えっ。ええんですか」

「そんな顔で見られとったら、こっちが食べにくいげん」

「おっちゃん、おおきに! あんた、ええ人やな」

アンが足元から言った。

「知らん人のチャーシュー1枚で、秒で懐くな」

男が小さく笑った。

「犬のほうが、よっぽど用心深いがいね」

「こいつ、飼い主よりしっかりしとるんです」

「飼い主がおまえやからな」

食事を終え、外へ出た。

男は、風太郎の古びた自転車を見た。

「兄ちゃん、旅しとるがけ?」

「働ける町で働いて、飯もろて、フラれて、次へ行ってます」

男が眉を上げた。

「最後の仕事、ずいぶん割に合わんげんな」

「そこだけ毎回、完全無報酬です」

「ほんなんか」

男は風太郎の肩を軽くたたいた。

「まあ、気ぃつけて行きま」

「おっちゃんもな」

男が雪の中へ歩いていった。

アンがその背中を見ながら言った。

「知らんおっちゃんと別れる距離感ちゃうぞ」

「チャーシューを分けたら、もう兄弟や」

「おまえの家族制度、肉で成立するんやな」


翌朝。

雪は夜のうちにさらに積もっていた。

風太郎は濡れた靴下をストーブの前で乾かしたかったが、ストーブそのものがなかった。

「仕事探すで」

「昨日のカツ丼で残金ゼロやからな」

町を歩いていると、古い台車を雪の上で押している女性がいた。

小柄な老女だった。

銀髪を後ろでまとめ、古い半纏の上から分厚い防寒着を着ている。

台車には、濡れた木箱、板、布、作業台の部品が積まれていた。

車輪が雪へはまり、動かない。

風太郎は後ろから押した。

「せーの!」

台車が雪の溝から抜けた。

老女が風太郎の顔を見た。

「兄ちゃん、飯代欲しいげんろ?」

「なんで分かったんです?」

「額に“まかない”って書いてあるがいね」

「そんな便利な顔してます?」

「腹減った顔だけは、能登じゅうに通じるわいね」

老女は塚本志乃と名乗った。

漆問屋の元会長だという。

「工房の片付け手伝ってくれんけ。まかない出すわいね」

「輪島塗を守る仕事、任せてください」

志乃が眉を上げた。

「まだ何するかも聞いとらんがいね」

アンが言った。

「まかないしか聞こえてへんからな」

「ほんなら、ぼさっとしとらんと運びま」

風太郎は台車を押した。

雪の残る細い道を進み、古い工房へ着いた。

引き戸を開けると、冷たい風と一緒に細かな雪が床へ吹き込んだ。

工房の窓には湿った雪が張りついている。

その白い光の中で、1人の女性が朱色の椀を磨いていた。

黒髪を高い位置で結んでいる。

黒い作務衣。

首には赤い手ぬぐい。

指先には、落としきれない漆の色が残っていた。

彼女は椀を少し傾けた。

窓から入る白い光が、丸みの上を滑った。

風太郎は木箱を抱えたまま見とれた。

「鏡みたいやな」

女性は椀から目を上げた。

「鏡ほど、薄っぺらくないげんよ」

「え?」

彼女は浜辺ミサトと名乗った。

32歳。

この工房で輪島塗を作っている。

正確には、作ろうとしていた。

ミサトは棚に残された、いくつかの見本を見せた。

木地だけの椀。

縁に布を貼った椀。

灰色がかった下地の椀。

黒い中塗りの椀。

研がれて曇った椀。

そして、深い艶を持つ完成品。

「壊れやすいとこには、布を着せるげん」

ミサトは、布が貼られた椀を指でなぞった。

「輪島の地の粉を漆へ混ぜて、下地を重ねる」

「塗って、乾かして、研いで、また塗る」

風太郎は完成した椀を手に取った。

軽い。

けれど、頼りない薄さではなかった。

「こんな小さい器の中に、そんな入ってるん?」

「見えんところのほうが、手ぇかかっとるげん」

ミサトは工房の壁に残された職人の札を見た。

「輪島塗は、1人で作る器やない」

「木を挽く人。下地する人。塗る人。磨く人。彫る人」

「町じゅうの手を渡って、やっと1つになるげん」

アンが完成した椀へ顔を近づけた。

黒い漆の中に、赤い柴犬の顔が浮かんだ。

「この黒、底がないみたいやな」

ミサトが初めて少し笑った。

「それが漆の黒や」

風太郎は、その笑顔に見とれた。

次の瞬間、足元の板につまずいた。

ガタン。

木箱が大きく傾いた。

「危なっ!」

ミサトが素早く箱を押さえた。

「道具、壊さんといて。残っとる物、少ないげんから」

「すんません。俺の足が勝手に」

アンが言った。

「目が勝手にミサトさん追いかけてたんやろ」

ミサトは呆れたように風太郎を見た。

「輪島へ来て、最初に壊すが自分の信用なんけ?」

「すでに修理不能かもしれません」

工房の片付けが始まった。

壊れた棚を運ぶ。

泥を落とす。

使える板を分ける。

作業台を組み直す。

形だけなら、少しずつ工房へ戻ってきていた。

しかし風太郎は、棚の上に何もないことに気づいた。

刷毛。

ヘラ。

漆を練る器。

乾燥に使う棚。

仕事に必要な道具が、ほとんどない。

外から、明るい声が聞こえた。

「頑張ってください」

「必ず復興できます」

「輪島塗は絶対に残ります」

ミサトは笑って頭を下げた。

「ありがとうございます」

人が通り過ぎる。

工房へ戻ったミサトの顔から、笑みが消えた。

「頑張っとらん日なんか、1日もないげんけどな」

風太郎が振り返った。

「何か言いました?」

「何も」

ミサトは、何も置かれていない作業台を拭いた。

「父が残した工房やさけ、ここで続けたいんです」

風太郎はその横顔を見た。

雪の光。

黒い作務衣。

赤い手ぬぐい。

漆のついた指。

胸が熱くなった。

「その気持ちがあったら、絶対元に戻れますよ」

アンの耳が動いた。

風太郎は続けた。

「輪島塗は何百年も続いてきたんや。これくらいで終わりません。みんなで頑張ったら、必ず」

「ヴゥ……」

低い唸り声が工房へ響いた。

アンが、風太郎の靴ひもを前脚で踏んでいた。

「なんや、アン」

アンは風太郎ではなく、空の作業台を見ていた。

ミサトが静かに言った。

「気持ちじゃ、漆は塗れんげん」

風太郎の言葉が止まった。

「父が何十年も使った刷毛も、漆を練るヘラも、乾かす場所もない」

ミサトは、誰も座っていない椅子を見た。

「元に戻るって、何が戻るがけ?」

「父も、前に働いとった人らも、失った時間も戻らんわいね」

「ミサトさん、俺は」

「うちらが頑張っとるかどうか、外から点数つけんといて」

ミサトは風太郎を見た。

怒鳴ってはいない。

だからこそ、その言葉は重かった。

「頑張れば戻れるって言われたら、戻れんかった物は、うちらの頑張りが足らんかったみたいになるがいね」

風太郎は何も返せなかった。


その夜。

志乃は、風太郎とアンを元漆問屋の2階へ泊めた。

1階には木箱や帳面が積まれ、古い漆と木の匂いが残っていた。

2階の小さな部屋には、石油ストーブと古い座卓があった。

志乃は魚の汁物、漬物、白ごはんを並べた。

「冷めんうちに食べま。遠慮しとったら、汁なくなるわいね」

アンには、味をつける前に取り分けた魚と白ごはん。

アンの寝床には、漆器を包むための柔らかい古布が何枚も重ねられた。

風太郎の寝床には、薄い座布団が2枚。

「俺の布団は?」

「犬は漆器と一緒で、傷つけたらあかんげん」

「俺は雑に積んでもええ荷物なんですか」

「あんた、どこでも寝られる顔しとるさけ」

「顔で寝床決めんといてください」

「文句言わんと、はよ食べま」

食事の途中、志乃は風太郎の茶碗へ黙ってごはんを足した。

風太郎も黙って、鍋をアンの届かない場所へ移した。

出会ってまだ1日。

それでも、その夜だけは、同じ家の同じ食卓にいる家族のようだった。

食事が終わっても、風太郎は眠れなかった。

昼間のミサトの言葉が、頭から離れなかった。

上着を着て、工房へ戻った。

窓の外では雪が降っていた。

工房には灯りが残っていた。

ミサトが、空の作業台を1人で拭いている。

風太郎は入口で頭を下げた。

「昼は、すんませんでした」

ミサトは手を止めなかった。

「みんな、元に戻るって言うげん」

「はい」

「父が座っとった場所まで、また元に戻るみたいに」

ミサトは、誰もいない椅子を見た。

「励ましてくれとるがは、分かっとる」

「ほやけど、戻らん物を戻るって言われると、悲しんどる自分まで間違いやって言われとる気がするげん」

父が最後に塗った椀。

壊れた棚。

工房を続けたいという思い。

自分が父の技術へ追いつけないかもしれない怖さ。

仕事を再開しても、注文が戻るか分からない不安。

それでも工房を閉めたくないという意地。

ミサトは、言葉を選びながら話した。

風太郎は口を挟まなかった。

解決策も言わなかった。

ミサトが話し終えるまで待った。

長い沈黙のあと、風太郎は空の作業台を見た。

「元に戻らん物を、戻る言うて励ますんは違うな」

ミサトが顔を上げた。

「足らん物は、足らんって言うてええ」

「頑張れへん日があっても、職人やめたことにはならへん」

風太郎は、自分の手を見た。

かつて会社員だったころ。

数字が止まれば、自分の価値までなくなるように感じていた。

休んだら置いていかれる。

迷ったら負ける。

倒れても、働け。

そんな声が身体に残っていた。

「今日は塗れへんかった。それも台帳に書いたらええんちゃうか」

ミサトが少し首を傾けた。

「それ、道具の台帳やなくなるがいね」

「人の手ぇを動かす台帳なんやろ」

風太郎は作業台へ手を置いた。

「止まった手も、職人の手や」

「止まったからって、その人が職人やなくなるわけちゃう」

ミサトは、しばらく風太郎を見ていた。

やがて、小さくうなずいた。

「ほんなら、赤い字も消さんと残したい」

「赤い字?」

「足りん道具。止まっとる仕事。できんかった日」

ミサトは空の棚を見た。

「消えたことにしたら、また、きれいな復興話になるさけ」

「残しましょ」

風太郎は答えた。

「足りへんもんも、止まった日も」


翌朝。

志乃が古い帳面を抱えて工房へ来た。

「うちらが考えんなんがは、明日元に戻ることやないげん」

志乃は空の棚を指でなぞった。

「今残っとる物で、今日、誰の手ぇを動かすかや」

帳面には、工房の名前、職人の名前、必要な道具を書いた。

貸せる道具。
道具の状態。
貸せる期間。
修理が必要か。
運ぶ車があるか。
送料を誰が払うか。
壊れた場合の補償。
そして、
仕事が止まっている日数。

ミサトは言った。

「復興しましたって言うための台帳には、したくないげん」

志乃がうなずいた。

「足らん物は、足らんまま書きま。見栄張ったら、誰も助けられんがいね」

風太郎が頭を下げた。

「俺にも手伝わせてください」

ミサトは定規と鉛筆を渡した。

「線、まっすぐ引けるがけ?」

「自転車よりは」

アンが言った。

「昨日、自転車ごと海へ寄っていったけどな」

「しゃべっとらんと、はよ引きま」

志乃が帳面を押さえた。

風太郎は最初の線を引いた。

少し曲がった。

「曲がっとるがいね」

「雪のせいです」

「室内やぞ」


その日から、4人は輪島の工房を回った。

雪の残る細い道。

台車の車輪が埋まる。

風太郎が引き、志乃とミサトが後ろから押す。

アンは先へ走り、除雪された道を探した。

高齢の職人が、使わなくなったヘラを出した。

「これなら貸せるげん。ただし、刃先は触らんといてくだし」

別の工房には、刷毛が残っていた。

しかし柄が割れている。

志乃が言った。

「これ直せる人、河井さんとこにおるげんろ」

「おるけど、今は自分とこの修理で手いっぱいやわいね」

「ほんなら急がんでええ。貸す人まで倒れたら、何しとるか分からんがいね」

乾燥棚を貸せる工房も見つかった。

だが、雪で軽トラックが細い道へ入れない。

台帳へ新しい欄が増えた。

除雪後。

晴天時のみ。

チェーン必要。

貸せる物があっても、所有者が首を横へ振ることもあった。

「これは、父が使っとった道具やさけ」

ミサトは無理に頼まなかった。

「大事な物やさけ、貸せん時は貸せんでええげん」

台帳には「貸与不可」と書いた。

善意を強制しない。

貸す人の仕事も守る。

風太郎は、道具をつなぐだけでは足りないと知った。

運ぶ人。

直す人。

状態を見る人。

責任を引き受ける仕組み。

そのすべてがなければ、道具は動かない。


4日目の夜。

泥と雪で汚れた風太郎は、再びかど長食堂へ入った。

そこには、あのチャーシューのおっちゃんがいた。

「また会うたな」

「おっちゃん!」

風太郎は迷わず同じ席へ座った。

男が風太郎の手を見た。

泥。

鉛筆の黒。

細かな木くず。

「今日は何しとったがけ?」

風太郎はカツ丼を食べながら話した。

「すごいばあちゃんと職人さんらがおってな」

「道具なくして仕事できへん工房を、手書きの台帳でつないでるんです」

「誰が何持ってるか。何日貸せるか。壊したらどうするか。送料誰が出すか」

男の箸が止まった。

「泣き言言わんから強いんちゃうかった」

風太郎は言った。

「泣き言言うてる暇ないから、今日をしのいでたんです」

「ほんなんか」

「現場の人だけで今日をしのいどったら、いつか手ぇ止まります」

風太郎は男を見た。

「現場が小さい橋かけてる間に、国がデカい橋かけなあかんのちゃいます?」

男は、しばらく何も言わなかった。

「兄ちゃん、政治家になってみんけ?」

「嫌です。スーツ着たら逃げたくなるんで」

アンが足元から言った。

「ネクタイ締めたら、5分で迷子や」

男は声を出して笑った。

「ほんなら、旅人のままでおりま」

笑っていたが、目は笑っていなかった。

何かを決めた人間の目になっていた。


5日目の夕方。

工房の戸が開いた。

泥だらけの青年が、大きな布包みを抱えて立っていた。

「ミサト」

ミサトの手が止まった。

「どこ行っとったが」

「倉庫と、親方の工房跡や」

青年は南谷宗介。

ミサトの父の最後の弟子だった。

宗介は、布包みを作業台へ置いた。

中から出てきたのは、泥と漆にまみれた数本の刷毛。

柄は傷つき、毛先も一部失われていた。

「親方の道具、これだけ見つかったげん」

ミサトは震える手で1本を持ち上げた。

柄には、父の指が何度も触れた跡が残っていた。

「遅いわいね」

「悪かった」

「何日探しとったが」

「見つかるまでや」

ミサトは言い返そうとした。

けれど声が出なかった。

震災後、人前では泣かなかった目から、涙が落ちた。

宗介は慰めなかった。

壊れた棚を見た。

「直すぞ」

ミサトは涙を拭いた。

「元どおりにはせんよ」

「分かっとるげん」

宗介は、親方の刷毛を見た。

「残った物で、続きを作るんやろ」

ミサトは小さくうなずいた。

「ほや」

風太郎は、少し離れた場所から2人を見ていた。

父。

師匠。

弟子。

工房。

失われた年月。

これから積み重ねる年月。

2人の間には、風太郎には入れない時間があった。

アンが風太郎の足元へ座った。

「強い相手、帰ってきたな」

「まだ勝負始まってへんやろ」

「始まる前に終わってる顔してるで」


そのころ。

チャーシューのおっちゃんは、東京の会議室にいた。

作業着ではない。

濃紺のスーツ。

胸には大臣の記章。

塚本志郎。

復興大臣だった。

机の上には、被災地ごとの支援資料が積まれている。

制度はある。

予算もある。

けれど、余っている道具と、それを必要としている人を横断して結ぶ仕組みがなかった。

志郎は、泥のついた手書き台帳の写真を机へ置いた。

「既存の災害支援制度と物流網を使います」

官僚たちが顔を上げた。

「単なる寄付サイトにはしません」

「道具や機械の状態確認。修理費。輸送費。保険。専門家による適合確認。電話と紙による申請窓口も作ってください」

議員の1人が言った。

「個人間の中古道具の融通へ、国費を投入するのですか」

志郎は台帳の写真を掲げた。

「必要な場所へ、必要な道具を届けるためです」

別の議員が首を振った。

「細かな貸し借りを国が扱っていたら、きりがない」

志郎の声に、輪島の言葉が戻った。

「現場は、紙と鉛筆で今日をつないどるげん」

会議室が静かになった。

「国が明日をつながんで、何のための復興予算ながいね」

志郎は標準語へ戻った。

「緊急実証を始めます。責任は私が取ります」


7日目の朝。

志乃が工房へ入ってきた。

いつも大きな声を出す志乃が、何も言わずに古いテレビをつけた。

「ちょっこし見まっし」

記者会見場。

壇上へ、濃紺のスーツを着た男が現れた。

画面の下に名前が出る。

復興大臣・塚本志郎。

風太郎の口が開いた。

「チャーシューのおっちゃんやん」

アンがテレビと志乃を見比べた。

「名字、一緒やで」

風太郎が志乃を見た。

「息子さんですか?」

志乃は腕を組んだ。

「腹痛めて産んだ、一番でかい道具やわいね」

「なんで言うてくれへんかったんです?」

「大臣の母親や言うたら、あんた態度変えるがいね」

「変えませんよ」

アンが言った。

「チャーシュー、もう1枚ねだるくらいやな」

テレビの中で志郎が発表した。

「被災地で不足する道具、機械、資材を全国で融通する緊急実証事業を開始します」

背後の画面に、輪島で作った手書きの台帳が映った。

風太郎がテレビへ近づいた。

「俺の線や」

「字は書いてへん。線だけや」

「せやから、俺の線や!」

志郎は続けた。

「現場は、紙と鉛筆で今日をつないでいます」

「国は、その善意へ送料も、修理費も、責任も押しつけません」

志乃が鼻を鳴らした。

「やっと、デカいスコップの使い方分かったがいね」


午後。

工房の前へ、最初の荷物が届いた。

けれど、雪で宅配車は細い道へ入れなかった。

箱は、町の入口で止まった。

志乃が袖をまくった。

「ほんなら、ここから運ぶだけやわいね」

朝市の店主。

職人。

支援に来ていた人。

宗介。

ミサト。

風太郎。

人が雪道へ並んだ。

手から手へ、箱を渡した。

刷毛。

ヘラ。

彫刻刀。

乾燥棚の部品。

使い込まれた道具箱。

最後の数百メートルを、輪島の人たちの手がつないだ。

アンは列の横を走り、雪へ落ちそうになった小さな包みを鼻先で押し戻した。

箱には短い手紙が入っていた。

もう店は畳みました。

でも、この道具はまだ働けます。

私の手では使わなくなりました。

次の手で続きをお願いします。

志乃とミサトが、届いた道具を確認した。

宗介が傷やゆがみを見る。

風太郎が台帳へ到着日と状態を書いた。

志乃がのぞき込んだ。

「これ、数字の3ながけ? 鳥ながけ?」

「3です」

「鳥にしか見えんわいね。書き直しま」

「国を動かした線に、細かいこと言わんといてください」

「在庫の数間違えたら、国が動いても役に立たんがいね」

テレビでは、各地の映像が流れていた。

東北の港。

網を失った若い漁師へ、九州の引退した漁師から使い込まれた網が届く。

水害に遭った農地。

農機具を失った人へ、別の地域から整備された中古機械が運ばれる。

被災した木工所。

廃業した工房から、工作機械が届く。

風太郎はテレビと台帳を交互に見た。

「俺の下手くそな線、国の仕組みになってもうた」

アンが鼻を鳴らした。

「定規からはみ出した線が、日本中まではみ出したな」

ミサトは届いた刷毛を並べた。

数はまだ足りない。

状態の悪い物もある。

金も、作業場所も、人手も不足していた。

台帳の赤い文字は、ほとんど消えていない。

ミサトは頁を見た。

「これで復興したことにはならんげんよ」

風太郎はうなずいた。

「はい」

ミサトは、使える刷毛を1本持った。

「ほやけど、今日は塗れるわいね」

工房の外では、夕方の雪が斜めに流れていた。

宗介が木地を作業台へ置いた。

ミサトは刷毛へ漆を含ませた。

黒い液体が、毛先へ静かに沈んだ。

刷毛が動く。

ザアッ。

白い雪の世界の中で、木地の表面へ黒が広がっていった。

ただ暗いだけの黒ではなかった。

窓。

雪。

工房の灯り。

ミサトの指。

風太郎の顔。

すべてが漆の奥へ沈み、ゆっくり浮かび上がっていた。

風太郎は息を止めた。

「黒いのに、明るいな」

ミサトは刷毛を止めなかった。

「塗っただけじゃ、まだ完成やないよ」

「これから乾かして、研いで、また塗るげん」

風太郎は、台帳の赤い文字を見た。

「町も同じか」

「何が?」

「今日1回塗れたからって、完成ちゃうんやな」

ミサトは小さくうなずいた。

「ほや」

刷毛が、もう一度動いた。

「何度でも塗って、傷んだら直す」

「輪島塗も、町も、それでええげん」

風太郎は、黒い艶の中に映るミサトを見た。


その日の夕方。

工房の窓から、冬の淡い光が差し込んでいた。

ミサトと宗介は並んで作業台へ向かっていた。

宗介が木地を置く。

ミサトが刷毛を動かす。

風太郎は、しばらく2人を見ていた。

「ミサトさん」

「何け?」

「工房が落ち着いたら、少し旅せえへんか」

ミサトの手が止まった。

「俺、次の町でも働くし、飯はたまに食べられるし、犬もついてくる」

アンが言った。

「条件、ほぼ遭難やぞ」

ミサトは静かに笑った。

「ありがとう」

風太郎の顔が明るくなった。

「ほな」

「でも、行かんげん」

ミサトは、父の刷毛が置かれた棚を見た。

宗介は何も言わずに、次の木地を磨いていた。

「私は旅する人やないさけ」

「この工房の続きを作る人やげん」

風太郎は、ミサトと宗介を見た。

恋人だとは言われていない。

約束もない。

けれど、2人は同じ続きを見ていた。

「俺、宗介さんに負けたんかな」

アンは首を横へ振った。

「男に負けたんちゃう」

「ほな、何に?」

「親方と弟子と工房と、何十年分の時間や」

「相手、多すぎへん?」

アンが風太郎を見上げた。

「今日もフラれたな」

ミサトが小さく笑った。

「ほんでも、助かったわいね」

風太郎が振り返った。

「何が?」

「線」

ミサトは台帳を指した。

「下手やったけど」

「最後にそこ言います?」


翌朝。

雪はやんでいた。

輪島の屋根と道には、新しい白が積もっていた。

海は青黒く、空気は冷たかった。

工房の戸から、漆と木の匂いが流れている。

志乃とミサトが、風太郎へ竹皮の包みを渡した。

中には、いしるで焼いたイカを混ぜたおにぎりが入っていた。

アンには、味をつけていない白ごはんと茹でた魚。

その前に志乃は、黒い輪島塗の弁当箱へおにぎりを入れて見せた。

風太郎の目が輝いた。

「これ、持っていってええん?」

志乃は、すぐに弁当箱を取り上げた。

「誰がやる言うた。見せただけや」

「一瞬、旅の食器が国宝級になるとこやった」

「あんた、自転車から落とす未来しか見えんわいね」

志乃はおにぎりを竹皮へ包み直した。

風太郎が一口食べた。

魚醤の深いうま味。

焼いたイカの香り。

日本海の塩気。

「口の中に、日本海と工房が一緒に来た」

アンが言った。

「漆は食べたらあかんで」

風太郎は色紙を取り出した。

筆へ墨を含ませる。

雪のように白い紙へ、歪んだ文字を書いた。

漆の手
足りないものを
書きつなぐ
今日の一行
明日の橋へ

志乃が読んだ。

「字、下手やわいね」

「内容は?」

「線も下手やったがいね」

「国まで動かした線やで」

「動かしたんは、うちの息子や」

「俺の功績、薄ない?」

ミサトは色紙を工房の壁へ飾った。

その隣には、手書きの台帳。

届いた物。

貸せる物。

修理中の物。

まだ見つからない物。

赤い不足の文字が、頁いっぱいに残っていた。

ミサトは父の刷毛を持ち、風太郎を見た。

「また輪島へ来てくだし」

「次はフラれへん時に来ます」

ミサトが少し考えた。

「ほんなん待っとったら、いつになるがけ?」

アンが笑った。

「よう分かってるやん」

風太郎は自転車へまたがった。

アンがキャリーへ乗る。

チリン。

志乃が手を振った。

「転ばんよう、気ぃつけて行きま!」

ミサトが工房の前から声をかけた。

「おにぎり、今日のうちに食べてくだし!」

宗介は小さく手を上げた。

「また来ま」

風太郎は振り返らなかった。

前を向いたまま、片手を上げた。

「絶対また来るで!」

アンだけが、少し後ろを見た。

ミサトと宗介が工房へ戻る。

志乃が台帳を開く。

テレビの中では、志郎が記者から厳しい質問を受け続けている。

制度はまだ実証段階。

正式な予算も、継続も決まっていない。

町に足りない物も、金も、時間も残っている。

それでも工房の戸は開いていた。

ミサトの刷毛が、木地の上を進む。

白い雪の中へ、黒い漆の艶が生まれていく。

漆の匂いが、冷たい海風へ流れた。

前を走る風太郎が、また『能登半島』の鼻歌を歌い始めた。

アンが耳を伏せた。

「輪島出ても、まだ歌うんか」

「旅は続くからな」

「おまえの音程だけ、復興の見通し立ってへんな」

風太郎の笑い声が、日本海沿いの道へ響いた。

完全に戻ったものは、何もない。

それでも、今日は刷毛が動いている。

輪島で引かれた一本の線は、風太郎が町を出る前に、日本中へ伸び始めていた。


つづく

石川県出身
浜辺美波+ 田中美里