オーシャン・ドッグスⅢ🐕 第2話:進路確定やな 北や
シバ・ゼロの操舵室。
日焼けした顔に白いひげ。
右目に斜めの古い傷跡。
元・戦艦ヤマトの航海士、浦上ゲンゾウが、海図と温度のグラフをにらみつけていた。
その横では、ネイビーのキャップをかぶった船長・レンが腕を組んでいる。
「…結論から言うとやな」
ゲンゾウが、重たい声で口を開いた。
「今のシバ・ゼロで北極海に突っ込んだら、途中で“船の方が先に凍える”」
「え、それ…うちらの前に、相棒がダウンするってこと?」
アンが目を丸くする。
ゲンゾウは、こくりとうなずいた。
「水温はマイナス近く。氷は分厚い。コンパスも乱れる。船体もエンジンも、全部“寒さ仕様”に作り直さなあかん」
「作り直すって…ここで?」
りうが周りを見回す。
インド洋のど真ん中。
ドックもクレーンも、何もない海の上だ。
レンが、ゆっくり首を振った。
「無理や。ここには、溶接する鉄板も、検査機器も足りん。ごっつい手術や。やるなら…」
レンは海図に指を滑らせ、日本の方角を指さした。
「神戸。川崎重工のドックしかない」

あんこが補足するように言う。
「chatDOGのデータでも、シバ・ゼロの元図面は“神戸・川崎重工・片桐ススム案件”で管理されてる。北極仕様に変えるなら、あの人たちが、一番早くて安全だよ」
アンは、しばらく黙ってカメポンの方角を見た。
石の甲羅は、ただ静かや。
けれど、その中心で、何かがうずくまって耐えている気配がある。
「じゃあ決まりやな」
アンは尻尾を一度だけ、ぱんっと打ちつけて、顔を上げた。
「今はまだ、北極に“行かれへん船”や。せやから一回、日本に帰ろ」
4匹の目が、いっせいにアンに向く。
「うちらの相棒を“北極仕様”にしてもらってから、もう一回、この子を迎えに行く」
アンは、甲板の下の石のカメポンの方を、ぎゅっと見つめた。
「カメポン。待っとき。絶対、起こしたるから」
その時だった。
カメポンの甲羅の北側が、ほんの少しだけ、淡く光った。
北極星みたいな、小さなひと筋の光。
すぐに消えてしまったけれど、アンたちは全員、息を止めて見ていた。
「今の…見えた?」
「見えた」
「見えたね」
ルナとあんこが同時にうなずく。
りうが、いつもの落ち着いた声で言った。
「進路、確定やな。北や」
アンは、にやっと笑う。
「ほな、北に行く準備の前に…やること、もう一個あるわ」
インド洋を離れる前に。
ちゃんと顔を見て、お礼を言う。
それが、ディーバに教わった「約束の締め方」だ。
ネパールの谷で嗅いだ夜の風を、まだ少しだけまとったような、インド洋沿いの港町。
海沿いの小さな寺に、白い大きな影が座っていた。
チベタン・マスティフのディーバ。
真っ白な毛並みが、夕暮れの色を少しだけ映して、うすい金色になっている。
首には使い込まれた数珠。
胸元には、木札がひとつ。
アンたちが階段を駆け上がると、ディーバは先に祠へ深く頭を下げてから、4匹の方へ顔を向けた。
「来たね」
声は低いけど、あったかい。
アンが一歩前に出る。
「ディーバ。谷の子らも、パパママも…みんな、ちゃんと帰れることになったで」
「うん。見ていた」
ディーバの視線が、港の方へ流れていく。
そこには、灰色の大きな船。
海上自衛隊の艦が浮かび、その甲板には、人びとの影が集まっていた。
「“怖い”を、ここまで運んできたのは君たちや」
ディーバは、ゆっくりと言葉をつむぐ。
「怖さを見ないまま背中向けたら、次の子が踏む。君らは、ちゃんと“怖さの顔”を見た」
アンは、一瞬だけ昔の自分を思い出した。
泣き虫で、速く走るくせに、すぐ震える。
それでも、「怖い」を胸の内側に隠さず、みんなに「怖い」って口にできるようになったのは、この白い先生のおかげや。
「うちら、あんたに習った“息”のおかげで、まだ立ってられるわ」
アンは鼻を鳴らして笑う。
「2-1-2で息して、“怖い”をバラす。あれ、北極でもやるで」
つづく
