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オーシャン・ドッグスⅡ🐶 第16話:オン・マニ・ペメ・フム

カトマンズの北、シヴァプリの山腹は夜明け前の色でしんとしていた。

湿った土のにおい、冷たい水の音。

谷の奥で鉄の打撃がひびく。

カン、カンひと息空けて、またカン。

そこは、青黒く光る石、龍石の採掘場だった。

半魚人たちが見張り、大人たちは無理やり石を掘らされている。

離れた横穴には子どもと犬たちが人質として押し込められている。

水路をはさんで2つの穴はつながっており、ひとつが荒れれば、もうひとつも無事ではすまない。

「谷の“逆拍”や。向こうは1-2-2で合図してる」

リッチーが囁く。

「うちらは2-1-2。リズムで勝つで」

アンが小さくうなずいた。

尾が一度だけ上下する。

〈シバ・ゼロ〉はふもとに“地上モード”で待機。

アン、りう、リッチー、ルナ、リョーマ、ルーク、あんこは、谷の暗がりに身を沈めて進んだ。

祠の鈴が風でかすかに鳴る。

夜気は薄く、声はもっと薄い。



採掘穴の入口。

半魚人の見張りがいた。

単眼がランタンの光を集め、氷みたいに冷たく光る。

背後、子どもたちの横穴から、心細い息の音が重なる。

「ここでやり合うたら、子どもたちが巻き込まれる」

りうが低く言う。

「ほんなら、こっち見てもろて、動きを縛るわ」

アンが単眼へ目を向けた。

視線が重なった瞬間、体の内側に冷たい輪がカチッとはまった。

肩、ひじ、足首、金縛りが落ちる。

耳鳴りがキンと鳴り、視界が細いトンネルみたいに狭くなる。

空気は胸まで来るのに、声が凍る。

まばたきさえ遅れ、舌の先が自分のものやないみたいや。

「……っ」

ルナの喉がふさがり、膝が土に沈む。

手が震えるのに、引き寄せられた冷たさだけがはっきりしている。

リッチーの指から端末が滑り、あんこの手が空をつかむ。

ルークは歯を食いしばるが、前脚が一歩出ない。

視線を切っても、ほどけない。

見張りの半魚人が、砂利を踏む小さな音だけ残して、静かに一歩、また一歩と近づく。

水路の向こうの横穴から、押し殺した泣き声。

二歩。

あと二歩で届く。

鼻の奥に鉄の匂いがして、時間がぴたりと固まった。


その時、祠の鈴が長く鳴った。

谷の濃い影から、大柄なチベタン・マスティフが一歩だけ出た。

チベタン・マスティフは、チベット高原を原産地とする超大型犬。

その名が示すように俗にチベット犬とも呼ばれる希少種である。

中国では「東方神犬」の異名もある。

毛並みはヒマラヤのような真っ白な毛並み、首もとに磨り減った数珠。

瞳はまっすぐで、風より静か。 

「ディーバ」

リッチーが小さく名を拾う。

その犬は、こちらを見ずに、まず祠へ深く頭を下げた。

「縛りは“怖れ”に結び目がある。
結び目を解けば、体は戻る」


声は低く、遠くまでひびくのに、やさしい。

怖さの芯に手をそっと差し込むみたいな声や。

「俺はディーバ。昔、王子の座を捨てて出家し、12年、本気で修行した。提婆達多と呼ばれた時代もある。過ちも誇りも丸ごと抱えたまま生まれ変わりの流れを歩いて、今は犬」

「せやから善い行いで、もういっぺん、人の身に生まれ直す権利を取り返す。最初に助けるのは、この谷の子らや」

ディーバは胸の前で息を整え、六つの音を区切って唱えた。

「オン・マニ・ペメ・フム」

静かな真言

短い祈りのことばが石肌にひびき、白い息が珠のように連なって見える。

「これは観音の慈悲を呼ぶことばや。わかりやすく言うたら“心を洗う6文字”。オンは目を覚ますこと、マニはやさしさ、ペメは泥の中の清らかさ、フムはブレへん力。ほどきの息、合わせ」

つづく