オーシャン・ドッグスⅢ🐕 第3話:柴犬マークの小さな青い旗
ディーバは、少しだけ目を細めた。
「いいね。寒いところほど、息は大事や」
「一個だけ、聞いてええ?」
ルナが、そっと前に出る。
「守護獣が石になるやつ。カメポンもそうなったんだけど…ほんまに、また起きてくれる?」
ディーバは、少しだけ黙った。
ゆっくりと、数珠を指で転がす。
「“石の殻”は、罰でもご褒美でもない」
静かな声。
「走りきった命が、“もう一回、形を選び直す”時間や。君らが呼び続ければ、その旗に、必ず気づく」
ディーバは、アンをじっと見る。
「アン。“吠えるのは一回”や」
アンは、思わず吹き出した。
「ママとおんなじこと言うなあ」
「その一回を、どこで使うかだけ、よう考え」
ディーバは、いつものように短く言って、祠にもう一度頭を下げた。
「オン・マニ・ペメ・フム」
真言が風と混ざる。
アンたちの胸の奥にも、同じリズムがひそかに響いた。
港の屋台通りは、今日もいい匂いでいっぱいだった。
階段をどどどっと上がってくる、軽い足音。
その先頭にいるのは、やっぱりビノードだ。
少しふっくらした体。
笑うと、目尻にしわが寄る。
「アンちゃん!最後の“屋台フルコース”だよ!」
蒸したてのモモ。
野菜多めのチョウメン。
甘いセルロティ。
ほくほくのサモサ。
優しい甘さのキール。
いつものビノードのメニューが、今夜はぜんぶ「子ども優先」で並んでいる。

「辛さは低め、ナッツは別皿。おかわり合図は…」
ビノードが笑って、親指をグッと立てる。
「親指グーな!」
リッチーが、どこからともなく現れて、同じポーズを真似した。
茶白のボーダーコリー。
しっぽをぶんぶん振りながら、ネパール語まじりで子どもたちに話しかけている。
「ミト、ミト。“おいしい”は“ミト”やで。発音チェックな」
「ミトー!」
子どもたちが、一斉にまねして笑う。
その横で、茶色い大きな影と、小さな影が、毛布サンド状態で子どもたちにくっついていた。
土佐犬のリョーマと、ブリュッセル・グリフォンのルークだ。
リョーマは、大きな湯たんぽみたいに黙って寄り添い、ルークは、小さな体で、子どもの涙を胸で受け止めている。
「泣くのはOK。寒いのはNG。順番守ろな」
「泣く→吸う→飲む→笑う、やったやろ」
そんな声が聞こえるたびに、アンの胸の奥も、少しずつゆるんでいく。
アンは屋台の端で、ビノードに向き直った。
「ビノード。あんたのモモ、世界一や」
「おお、世界一出た!」
ビノードが、うれしそうに鼻で笑う。
「でも、世界一の座は、毎回“ニコニコ税”で更新ね。笑顔、二回ずつくれよ?」
「しゃあないなあ。ほな、三回笑ったるわ」
アンは笑って、前足でグータッチした。
港の一番奥、少し静かな岸壁。
そこには、スーツ姿の女性が立っていた。
高杉サチエ。
日本の総理大臣だ。
濃いブルーのスーツ。
左のラペルに、小さな赤い丸いピンと、金色の細いリボンのピン。
アンが駆け寄ると、サチエは膝を少し曲げて目線を下げ、アンの頭に手を置いた。
「よう帰ってきたな、アン」
撫でる手は、いつもどおり強すぎず、弱すぎず。
アンは、気持ちよさそうに目を細める。
「インド洋でのこと、ぜんぶ報告もらったよ。ありがとう。君らがいなかったら、あの子たちは今ここにおらんかった」
「うちらだけちゃうで」
アンは、尻尾を振った。
「ディーバも、ビノードも、ここの子らも、みんなクルーや」
サチエは、ふっと笑う。
「せやな。じゃあ“クルー代表”として、君に次のお願いをしてもええか?」
「なんや?」
「北極」
サチエの目が、少しだけ鋭くなる。
「あそこでも、海の声が乱れ始めてる。日本からも、できる支援は全部送る。でも、“あの顔”で走れるのは、君らだけや」
アンは、一瞬黙ってから、ぐっと胸を張った。
「任せとき。うちら、世界のてっぺんにも“隣の家”見つけてくるからな」
サチエは満足そうにうなずき、ポケットから小さな旗を取り出した。
柴犬マークの小さな青い旗。
「北極で、もし余裕があったらでええ。どこかの氷の上に、これを立ててきて」
「“ここまで来たで”の合図やな」
「そう。帰ってこんでもええ、なんて言わへんからな」
サチエは、にやりと笑った。
「ちゃんと帰ってきて、その旗の写真を、うちに見せに来い」
「了解。ヨーソローや」
つづく
