実家が登録有形文化財になった。
2025年7月18日に、大阪にある実家が登録有形文化財に登録されました✌(厳密には答申があり、後日11月に登録が完了しました)
近代の文化財建造物に対する国の保護制度で、国が指定する重要文化財とは異なり、一定基準をクリアした建築を所有者が登録•保護していこうね~というものです。
ボロいが、かっこいい実家

建築200㎡、敷地400㎡。もっといい写真撮りたい。
小さな一歩ですが、多くの方の力があってやっとの登録となりました。動き始めて4年(最初間違えて3年と表記)、節目となります。以前から「登録されたあかつきには何か書き残そう…」と思っていたので、これを機になぜ登録したのかを書いておきます。
「この家、残したほうが…いいのかな…?」と思ったきっかけ
当初は文化財登録の制度も知らず、絶対残すべき!と思っていたわけではありませんでした。子どもの頃から見慣れている家なので、正直「広くて古いな」「灯籠ってほかの家で見ないな」「うちの二階、なんで使ってないんだろう(先代まで大家族だった)」など、なんか人ンちと違うなという感覚でした。姉はよそのマンションはきれいで憧れていたと言っていました。

とはいえ、よく見ると和と洋が調和した空間があり、陰影礼賛の世界観、小さなステンドグラスに差し込む光、四季折々の花が咲く庭など、愛着とは異なる美しさも感じていました。また、私自身が茶道・華道を始めて年数を重ねる中で、実家の床の間の「格の高さ」なども客観的に普通ではないと感じる土壌が(やっと)できたところもあります。
また、家探しで築浅マンションを見て「これが日本中に残っていく家の姿なのか?」と疑問に思っていたことも大きかった。
色々な要素を重ねながら、この家には価値があるし、時代背景としても二度と同じものが作られることはないんだなという感覚がありました。
4年前、両親からたまたま実家をどうしようかなあと話があり、残したほうがいいと思うと伝え、そこから方向性を模索していきました。ちなみに両親は実家に住んでいるので「登録文化財に住む人間」も爆誕しました。
登録有形文化財という制度を知る
残したいと思ってから、笑っていいとも形式で会社の知り合いから色々な人に話を聞いていきました。
ざっくり、歴史的建造物に詳しい方に「登録有形文化財という制度があり、それに詳しい人がいる」と教えてもらったことが登録のきっかけでした。有識者の方の「可能性、あると思いますよ!」が次の有識者につながり、実際に見ていただいてこれはいけそうだということで最終的に市の職員さんにつながり、申請に進みました。
一方、実際に住まいにしている&持ち主である父との関係は本当に難しかった。親は「好きにしていいよ」という仏の顔と、「こんな古い家、地震が来たら終わりだ(実際そう)」「残す意味がわからない」という鬼の顔を持ち、私の計画のなさも影響し、何も伝わらない状況でした。
古民家カフェとか美術館とか両親いっぱい楽しんどったのになんでや。
さらに、申請に必要な所有者情報の確認では、登記が古すぎて曽祖母が持ち主になっていたり(後にこれは間違いと判明)、いろいろな書類で番地が違っていたり(現住所とも異なる)、情報の整合性が取れず、手間も時間もお金もかかってしまう思わぬ壁がいくつも現れました。
現持ち主の父にとって役所や親族とのやり取りは無駄で苦痛でしかないが、父しか手続きができない。なんの計画もない小娘のせいでなぜこんなことをわざわざしなければならないのかという父の強い意志。
色々あって憤死するなら今晩だなという夜が私にも両親にもありましたが、怒りが原動力になるタイプの人間で本当に良かったです。
大事なのは「残し方」ではなく「活かし方」
文化財に登録することに経済的なメリットはあるのですが、追加で助成金が貰えるといったような制度ではないので、自動的に保存されるというわけではありません。残す=維持管理するためにはお金が必要で、そういった意味での利活用が必要不可欠です。
利回りを考えて、最初はレストランなどに大規模に貸し出す方向性も検討しましたが、和室は和室としてあるべき姿形で残したいと思い、改修の制限もありました。また、そもそもオンボロハウスの改修に何千万円もかけるなんてという資金への価値観でも両親と爆裂に喧嘩しました。
そういった経緯もあり、まずは小さく試してみることから始めました。

昨年、建築士会の皆様のお声かけから、お能のワークショップを開催していただくことができました。能舞台ではないですが通じるところもあったのか、場のパワーも感じてめちゃくちゃによかった。
その中で持ち主の想いを語る場があり、父と私で話しました。お父さんは黙ってるよ…と最初言っていた父もしっかり説明してくれ、私が父に頼まれてつくった原稿はガン無視スピーチでしたがよかったです。
終了後に父が「皆さんが聞きたかったのはデザインの歴史では…もっと勉強せねば…」ということを気にしており、驚きつつ、もっと実感を持ってもらいながら進めるべきだったなという反省もありました。
「文化財」とは何なのか
私は趣味が茶道・華道・日本舞踊・美術館巡りで、15年タイムスリップできるならどんな苦悩があっても芸妓になって全部もっと極めたかったと思っています。芸事は意味があるようでなく、意味がないようであり、本当に奥が深い。
人も家屋も長い歴史におけるほんの一瞬の存在ですが、その長い歴史に育てられた茶道や華道などの伝統ある文化があり、世俗の暮らしも通してその文化のエキスが注がれたのが邸宅なのだなと感じます。
床の間をはじめて飾って思ったこと
日本家屋において非常に重要なもてなしの空間である床の間。昭和期には床の間がないなら家じゃないという価値観でしたが、現代の住宅からは畳の部屋すら無くなってきました。

写真の掛け軸と松は、能の会を家開きのお祝いと捉えて、母と用意したものです。
掛け軸は、能の代表的な祝言曲でもある「高砂」。割にどこの家庭でもあったものだと母は言っていました。能の会でシテ方の林本大さんがこの軸を見て高砂の一説を謡ってくださり、大変に感動しました。
松は常緑で葉が落ちないことからおめでたい植物の代表で、生け花の嵯峨御流という流派で一番寿ぎの意味がある活け方で水引を結びました。状態の良い枝を用意してくださった大阪園芸社さんに感謝。
私も床の間をちゃんと飾ったのはこれが初めてで、色々ルールがある(花の向きとか台の置き方とか)ので流派の伝書を読みながら用意しました。床の間って飾りがいがあるんだな…みんな出来うる限り見栄を張って軸や壺を買い、日常的に楽しく飾っていたんだろうな…と感じました。
一つ一つのあつらえが、その場のメッセージを伝え、道具の由来にその家のストーリーがあり、それが表現される空間。しかし、美術館や博物館でも茶会でもない、一般庶民の暮らしや世俗にあった文化としては絶滅が目に見えています。
そういった複合的な文化の土台になっていたのが「普通の家」だと思うからこそ、過去から未来をつなぐ場として残したい、というのが今の感覚に一番近い言語化に思います。小さいけどこのユニバースの宝ってワケ。
とはいえ、直近でできることは小さく、文化体験やギャラリー的な貸し方なのだろうなと思いつつ、まずは自分ができる範囲で(そして親との関係も良好に)やっていきたいと思います。
おわりに
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
そして改めて、今回の登録までにご協力いただいた、会社のお知り合い、大阪府建築士会、登録文化財所有者の会、大阪府ヘリテージマネージャー協議会の皆様、大阪市職員や文化庁のご担当者様、本当にありがとうございました。
複雑な思いもありながら、長く尽力してくれた両親にも、本当に心から感謝しております。
先述の通り、活用のためのスタートだと思っております。場所にご興味がある方、大阪でのイベントやギャラリー会場として使ってみたいなどのお声かけ、やったことはないのですがプチリサイタル会場(ディアパソンというメーカーの小さめサイズのグランドピアノがあります)を探しているなどもお声がけもぜひ。
お知り合いの皆様、昭和町の街歩きも兼ねて、機会があったら見にいらしてください。
文中では割愛しましたが、家の建築的な魅力は和室ではなく、昭和初期の和洋折衷様式にあるので、直接見ていただけると嬉しいです。
おまけ 母ギャラリー



