それはまだ言葉にならない決意ー覚悟と進路の狭間でー
「自分には、きっと覚悟が足りないんだと思うんです」
今週、ある生徒が面談の中でこぼしたこの一言が、ずっと心に引っかかっている。
声のトーン、話した後の沈黙、少し伏し目がちだった目元の揺らぎ、そのすべてが、耳だけでなく、胸に残り続けている。
彼は、海外に視野を広げて将来を構想していた。
国境を越えて学び、働き、世界を舞台に自分の役割を果たしたいと願っていた。
その夢は漠然としたものではなく、彼なりに言葉にしようと何度も試み、紙に書き、語り直しながら、少しずつ輪郭を帯びてきたものだった。
だから、志望校の選定も当然その夢に沿う形だった。海外大学ではないにせよ、国際的な活動がしやすい、広く世界と接続できる場所は、彼にとって希望の象徴だった。
しかし現実は、彼の意志だけでは進めなかった。
彼の実力の高さが、むしろ彼の進路を曇らせていた。家庭からも、学校からも、「せっかくそこまでの実力があるのだから」「もっと偏差値の高い大学を目指してみては」という声がかかる。いわゆる有名大学、難関大学への進学が当然視されるなかで、「夢」や「志」だけでは心許ないとする空気が、知らず知らずのうちに彼を包んでいた。

毎年、こうした光景に出会う。
総合型選抜の受験指導に携わる者として、私は何度となく、この「見えない圧力」と出会ってきた。
一人ひとりが自分なりの問いを立て、社会と関わろうとする。その出発点としての大学進学が、いつの間にか「偏差値」という尺度に押し流されていく。
それが、「あなたのため」という純粋な善意によって行われてしまうからこそ、なおさら、やるせない。
私は思う。
どんな環境であろうと、どんな成績であろうと、志を高く掲げ、学術を通して世界の傷に目を向け、真剣にそれに向き合おうとすること――それこそが、総合型選抜の根幹なのだと。
「どこの大学に入るか」ではなく、「何のためにそこを選ぶのか」。
受験とは、自分の人生に責任を持って向き合うための、最初の問いかけにすぎない。
けれど、現実はそれほどきれいごとではない。
日本において、学歴は依然として重く機能している。
進学先の偏差値が、将来のキャリアや待遇に一定の影響を及ぼすのも確かだ。
親が心配になるのも、当然だと思う。たとえ「子どものやりたいことを応援したい」と口では言えても、ふとした瞬間に漏れ出す「本当にこれでいいのだろうか」という不安は、人生の先輩としての切実な問いだ。

だからこそ、私たちのような指導者は、生徒の理想と保護者の現実のあいだに立ち、その両方に耳を傾けなければならない。どちらの声も、軽んじてはならないのだ。
誰も悪くない。
本当に、誰も悪くない。
生徒も、頭でっかちになっているわけじゃない。
「自分のやりたいことを通すこと」が、誰かの不安や疑念とぶつかってしまうことを、ちゃんとわかっている。
むしろ彼らは、そのぶつかりを正面から受け止めすぎて、身動きが取れなくなってしまっているのかもしれない。
親御さんもまた、たいていの場合は、「好きなことをやればいい」と言ってくれる。
でもそれは、「好きなことをして、うまくいく保証があるなら」という留保つきの応援であることもある。
その「保証」は、時に偏差値や知名度といった“数字”によって代用されてしまう。そうせざるをえない社会が、今も確かにある。
だからこそ、進路をめぐる対話は、容易に結論が出ない。
どれだけ話し合っても、どれだけ資料を揃えても、最終的には高校三年生という18歳の若者に、「自分で決めなさい」と結論を委ねなければならない。
そして、彼は言うのだ。
「自分には、きっと覚悟が足りないんだと思います」

その言葉に、私は打ちのめされる。
そんなことを言わせてしまっている私たちは、いったい誰の覚悟を、誰に預けてしまったのだろうか。
違う。彼に覚悟がないのではない。
むしろ彼は、覚悟という言葉では追いつかないほどの不安と責任を、今まさに一身に引き受けている。
夢と現実の裂け目で、誰かを否定することなく、自分の想いをどう差し出すかに心を砕いている。
彼の言葉は、ただの自己否定ではない。
それは、まだ言葉にならない「決意」のかたちだった。
私もまた、そんな生徒たちの姿に触れるたびに、心が締めつけられる。
そして、何度も涙をこらえている。年々、涙もろくなってしまった。
指導者として、私は彼らに何ができるのだろうか。
どんな言葉が彼らを励まし、あるいは傷つけずにいられるだろうか。
もしくは、もう言葉など要らなくて、ただ隣に黙って立つことが、最大の寄り添いなのかもしれない。
思えば、私自身もまた、問い続けているのだ。
伴走者として、教育者として、人として。
私は本当に彼らとともに「揺れる」覚悟を持てているのだろうか、と。
生徒の葛藤に向き合うたびに、私自身もまた、人生という葛藤の渦に投げ出されている。
共に迷い、共に立ち止まり、共に考える。
その時間こそが、きっと私にとっての教育であり、「生きる」ということなのだと思う。
6/21
編集者 中島康成
国際基督教大学2年。プロジェクト村人A代表。大学に通う傍ら、2024年度より、母校である聖学院高等学校にて総合型選抜対策講座「索咲処」を開講。2025年度より「村人Aプログラム索咲処」として公式講座化する。
講座では「実存と構造の狭間で、肩書きのない物語を対話する」を実践。
慶應SFC、ICU、武蔵野美大、立教大等 指導歴、合格歴あり。
