目の前にあるものがすべて
.. だった。
確か...
旧時代(すっかり気に入ってしまった.. この区分の感覚...)?2020年頃?迄は、自分の座右の銘みたいのは少ない、ないに等しいけれど、題名に下書き感覚でメモった、目の前にあるものがすべて、って、考えるに至って、思って、言ったり、書いたりし、唱えていて、あまり疑いはなく、目の前にあるものがすべてだよな... という考え?思い?かな、当たり前のように使うが座右とは何ぞや?.. とかく深めていた。座右こそ手近なところか... 自分のいちばんすきな、楽チンな、都合のよい..
今、新?自分的にも奇妙?な時代に考え直してみても、たしかに、目の前にあることがすべて、ではあるんだけど、"+α"手元のスマフォんくらいに思っていた+αだとか、目の前に溢れんばかりに濁流のようにも清流のようにも流れ出づる、知り合った人、知らない人、架空?の、死んだもの、ありとあらゆる動物やものやはなしが目の前に...現れる。すべてだ。すべてとして抱えるには無理だ。旧な時ならば、これらすべてはすべてで在ったはずだ。それに異論はない。だが、潜んでたり、お隠れになっていたり、篭っているけど、こちらはこちらで、その気配を感じたり、思い知らされたりする、なんてことでやっていたはずだ... ..
この先、何も言いたくない(笑)
潜んでいたり、お篭りになっていたり、隠されていたものがあらわになったとはいえ、物理や法則には明るくないが、代わりに今まであらわになっていた人やものや何かが、ひそみ、隠れ、籠り、死ぬ、生きる(と打とうとし、イキると出てきて、生きるよりイキるでいい気持ちがした)。
自分の念仏パート②.. はいはい。
SNS?ソーシャルネット?ワーク?サーヴィス?における?かかわる?目前って、一体何なんだ... まあ疑っていいと思う。それは、我、普通。妥当。
この辺りまでを書いていて、電源が切れて頓挫した。
口を糊することにかかわることを終えたり、取り掛かる前に、なぜか書いている。打ちのめされること、心意にかかわることなる諸問題の山積みをほって置けないというか、たぶん病気なんだろうけど、そこにしか目もからだも向かなくなってきているのの度が過ぎてきた。夏だからなのか。さっき歩いていて、一時、精神分裂病みたいな言い方流行ったよな.. いま人ごとみたいにそう思っているけど、自分は分裂に向かってまっしぐらだな... 適応障害って随分こじんまりした印象だよな.. とか、日陰でじりじりしながら思いはじめた。そう。目にみえないもの、精神世界みたいなことを意識し出し、そこで障害というのとつながりを見出した。どうやって書こうかな。わりと身支度や掃除、洗濯、染色などをしている最中はイメージがすらすら浮かんでいたけど、いざ書き出そうとすると尻込みはしてしまう分野?内容...
ことばに保険をかけるのは止めようと思うのは、誰かのそういったことばをみて、ズキンと心当たりがしたからだ。気にはしている。どうやら今回の地震では、地震大国の国民として学習してきた最善として、気を落とさず邪魔はせず経済をまわすという言説が人気あるのか、自分の目の前の濁流からはよくみえる。たしかにそうだと思うけど、あまのじゃくのいうのか、自分は自分を失っているから、経済を回そうみたいなのの力にはなれそうもなくて、避難したり傷を負っても、排泄がこっそりできる自分だけの場所があったり、水浴びや風呂浴びを願う人たちの願いが叶うことを遠方から真剣に偽りなく、弱々しながらも執念深く念じることとしました。昨晩あたりから。逸れた。逸らしてみる。
屋根はあるし、はげしい揺れ、地面が割れることの身体体験はないから、おなじと言い張る訳にいかないけど、すこし自分も有事みたいな日常をだらだらずんずん本格的送っているのに抗えなくなってきていて、今はガスコンロひとつ、緩やかに失ったものを失ったまま、回復、復旧、復興する理由や算段、意味や希望を見出したつもりが、まやかしや幻想であるといった目にみえる因果、目にみえない精神なるものに集中しておもうことがらすべてにあらわれだして、本当に打ちひしがれている。
飛び交うおいしそうな食事の写真なんかは本当にわかりやすい。それに、どういう思いが込められているか。なんとなく。惚気や優越感からさみしさや美(かな)しさを読み取り、グロテスクを感じること、容易。
・july や雷に因んで"ライちゃん"と名付けられているであろう猫のことを、そんなに親しい訳でも知り合いでもないその飼い主一家のことやエピソードを、急に頻繁に、思い出した、ということがあった。
・わりとよく行く銭湯の番台に入湯料を支払おうとした瞬間、"おーい、お湯が出ないぞ〜。"と、叫ぶおっさんの声。あまりのナチュラルさに、ここはそのおっさんの家かな、という気持ちがし、一瞬、時間が止まった。

待ち遠しいというか
ないと困る
だから、ごみを出さないように
するというのは
一見正しい?
ごみの日じゃないことが
愉しめる秘訣にも思える
樹木希林さんなんか
ごみをあまり出さない
(ものを大事に長く使う系)
というのを
天然生活か暮らしの手帖
なんかの
インタビューで
みかけたことがある気がする
...
なんか納得しちゃうね
ワイドショーの報道などと
相まって

ドライフラワーブーケ
半透明30ℓごみ袋に入ってて
使い途を思い付いたこと"が"
だけど、
1枚程よいサイズのごみ袋を
回収できたことは
地味にうれしい、よろこばしい
ラッキーだったりした
お米によって生きている
ひさしぶりに
南無
本当に打ちひしがれている。嫌気もさしている。死に場所がわかったような気がする。旧人なんで、愛の裏返しは憎なままだ。それは明白だ。決めてるのは自分とかスピリチュアルでは言われるんだろう。何でだろう。何だっていいだろう。
たぶん、うたた寝してしまった野田真吉を身をもって教わっているんだろうな.. そこまで肩入れするような熱量や気合じゃないんだけど、これだ... みたいなたしかさはつよい。

占い受けてるみたい
パンフレットが超ヒーリング的
目に見えること、耳で聞こえること、心意にかかわること...
自分の精神状態も現実世界も呪いのちゃんこが腑でぐつぐつと煮えているような感じの状況で、もう何でもいい、どこにでも連れて行け、脇目も振らずにどこにでも泣き縋りに行く、という気分がしながら、口を糊し、失敗したり、粥をすすり、湯を浴び、紐を解いて、編み直していたりし、それと並行で、ゆきははなであるにまつわることのイメージを、おいかけるというのか、取り憑かれるというのか.. そういうところに自己の境界はない。踊るということはなくなったし、誰かや何かとまぐわうことにかかわることで完全に打ちひしがれてしまい、自分の顔もからだも、鏡でみても思い出せないし、思えないけれど、楽屋が舞台なタイプだったんだろうな。巣や宿をすぐ楽屋にしてしまう。現在の亡霊としての自分のこととも結びつく。
失ったものを取り戻すとか、ドラマみたいにすれ違ったものが交差しなおす、かけ違いのボタンをつけなおすみたいなことは、新時代にはないのか。絶望するまでもなく、片付いてゆくんだろうな、という想像を確かめる間もないかも知れない。
耳で聞こえることも目に見えることも届きずらい。
