復活の瓦礫 — 灰渠夜話 —|第一章 灰渠への招待|長編小説
灰渠では、朝はいつも少し遅れて来る。
空が明るくなるより先に、谷底のどこかで鉄板が鳴る。誰かがシャッターをこじ開ける音だったり、夜の間に冷え切った配管がようやく身じろぎする音だったりする。その音が二つ三つ重なるころには、川の上に溜まっていた灰色の霧が、下から押し上げられるようにほどけはじめる。工場の煙と、濡れた土の匂いと、昨夜の油がまだぬるく残った風が、同じ方向を向かずに漂っている。朝というより、使い終えた街がもう一度しぶしぶ起き上がるみたいな時間だった。
ヨミは、廃工場の外壁に背を預けて、しばらく川を見ていた。
川と言っても、昔の地図に載っていたような澄んだものではない。灰渠の川は、ずっと前から水だけを流してはいなかった。上流の再処理施設から逃げた泡、色の抜けた薬液、夜のうちに捨てられた部品、時々は名前のない生き物の骨。雨の少ない季節でも、水面はたいてい膨れて見えた。流れているというより、何かを飲み込んで、飲み込みきれずに喉の奥で濁らせている感じがした。
岸辺に突き出た鉄骨には、昨夜のうちに鳥が三羽止まっていたはずだったが、今は二羽しかいない。残った二羽は、羽を畳んだまま、川面を見下ろしている。鳥までこの街では、何かを待つときの顔を知っていた。
ヨミは軍手をはめ直し、足元の麻袋を持ち上げた。なかには銅線の切れ端、煤けたボルト、まだ使えそうな蝶番、どこで外れたのか分からない配電盤の取手、それから小さな真鍮の札がいくつか入っている。札には番号だけが打ってあって、施設名も用途も消えていた。こういうものは、回収屋にまとめて渡せば安く買われるし、修繕工房に直接持っていけば少しだけ値が上がる。どちらにしても、今日の昼飯と、食堂に入れる米の足しにはなる。
彼はしゃがみ込んで、瓦礫の隙間を覗いた。昨夜の潮のような増水で、泥が新しく盛り上がっている。泥の表面に、誰かの靴跡が半分だけ残っていた。かかとのない靴だ、とヨミは思った。住区の方にいるキチの履いているやつに似ている。キチは片足を引きずるから、足跡の片方がいつも少し浅い。だが、その靴跡は途中で消えていた。川へ寄っていったのか、引き返したのか、泥が乾く前に別の水に撫でられたのか、判然としない。
灰渠では、足跡が途中で消えることに、あまり意味はなかった。人が消えるのも、それに近かった。探される者と探されない者の違いはある。張り紙になる者と、ならない者もいる。だが、消えたことそれ自体は、誰かの生活を二日か三日乱すだけで、世界の方は驚いたりしない。
ヨミは、錆びたバールを瓦礫に差し込んだ。めくり上がった床板の下から、細い銅線が束になって覗く。湿り気を吸って表面が黒くなっていたが、中はまだ生きていた。彼はしゃがんだまま、無駄のない手つきで線をほどき、付着した泥を親指でぬぐい、袋に詰めた。そうしているときだけは、頭の中が静かになる。どの角度で力を入れれば折れないか、どこまで剥がせば音を立てずに済むか、どれが売れてどれがただのゴミか。考えることが目の前の手元のことだけになる。人間関係でも将来でもない、鉄の重さと湿気の具合だけになる。
その静けさを破ったのは、頭上で鳴った乾いた咳だった。
「朝っぱらから墓荒らしか」
見上げると、二階の通路の残骸に座っている男がいた。コイルみたいに痩せた身体を手すりに引っかけて、片足だけだらんと下げている。頬に煤がついていて、歯の一本が金色だった。名はリツといった。工場が動いていたころには見かけなかった顔だが、街が壊れかけてからは、こういう顔ばかり増えた。
「墓なら中身が入ってるだろ」
「入ってるさ。だいたい、出ていったやつの怨みが」
「売れないからいらない」
リツは笑って、咳き込んだ。咳のあと、唾を吐く代わりに空き缶を川へ投げた。缶は途中で風に煽られて、壁に当たってから落ちた。
「今日は下の道、気ぃつけろよ」とリツが言った。「宿舎の前、また板が沈んでる。昨日の夜、酔っ払いが片足持ってかれた」
「片足だけで済んだなら運がいい」
「その言い方、ほんと感じ悪いな」
「朝から愛想よくしても、銅線は増えない」
リツは今度は本当に笑った。こういう他愛のない会話だけで、この街ではいくらか命がつながっている気がするときがある。親切でもないし、信頼でもない。ただ、相手がまだ喋れる状態か確かめているだけの言葉。灰渠に残っている優しさは、たいていそういう雑な形をしていた。
ヨミは袋の口を縛り、立ち上がった。膝に泥がついている。左の裾も濡れていた。工場の敷地を出るには、ひしゃげた門柱の間を抜け、かつてトラックが入っていた傾斜路を降りる。門柱には社名の跡がうっすら残っている。白い塗料の輪郭だけが壁に焼きついていて、肝心の文字は誰にも読めない。読めなくなった名前ばかりが、この街には残る。
傾斜路を降りきると、視界の奥に煙突が並んで見えた。もう火を噴かない煙突だ。赤と白の塗り分けもほとんど煤けて、頂上だけが朝の薄い光を受けていた。その手前には、放棄された作業員宿舎が何棟もある。三階建てのコンクリートの箱が、谷の斜面に肩を寄せ合うように建っていて、窓ガラスの半分は割れ、残り半分には内側から毛布や段ボールが貼られている。使われていないはずの建物なのに、物干し竿だけは時々入れ替わる。煙の出ない部屋から生活の匂いだけがしてくることもある。誰が住んでいるのか分からない。それでも、そういう場所ほど夜になると咳や笑い声が漏れる。
宿舎の一棟目の壁に、新しいペンキの痕が見えた。黒の上から黄土色が雑に塗り重ねられ、その上にさらに白で矢印が描かれている。避難経路の案内らしかったが、矢印は途中でひび割れに食われて、どこを指しているのか分からなくなっている。ひびのあいだに生えた草が、矢印の先端だけを隠していた。
灰渠は、指示を出すことはあっても、最後まで責任を取るのは苦手な街だった。
宿舎の角を曲がったところで、ヨミは一度足を止めた。ポケットの中で、硬いものが指先に触れたからだ。取り出すと、透明のビニールに入れた古い写真だった。折り目は何本もついていて、端は擦り切れ、中央には薄い裂け目まで入っている。そこには若い女が写っていた。背後には今よりましな色をしていた川と、まだ稼働していたころの工場の一部が見える。女はうまく笑えていない。カメラを向けられることに慣れていない顔だ。それでも、写り込んだ風の感じだけは柔らかい。髪が頬にはりついていて、目尻にだけわずかな笑い皺が寄っている。
ヨミは写真の縁を親指でなぞった。
母が本当にこんな顔で笑っていたのか、彼にはもうよく分からなかった。記憶の中の母は、だいたい音でできている。台所で皿が重なる音。帰ってきたときの靴音。眠れない夜に、隣の部屋で咳をこらえる気配。顔よりも先に、そういうものが浮かぶ。だからこの写真を見ると、毎回少しだけ不思議な気持ちになる。人には、ちゃんと輪郭があったのだと思う。失う前には、誰にも顔がある。失ってからは、声や匂いや、手の温度ばかり残る。
写真の裏には、くせの強い字で日付が書いてあった。年号は消えかけていて、月だけが読める。六月。梅雨の入りかけだったのかもしれない。工場の煙が低く流れる季節だ。母は水辺が好きだったのか、ただ他に出かける場所がなかったのか、そこまでは知らない。
ヨミは写真をしまいかけて、その先の壁に目を留めた。
宿舎の掲示板だったものに、紙が何枚も重なって貼ってある。イベントの告知、配給の時間変更、風呂の故障、補修工事のお知らせ、選挙だか住民説明会だかの案内。その上からさらに誰かが別の紙を貼り、その端が剥がれ、雨で滲んでいた。いちばん上に残っていた一枚だけが、新しかった。
行方不明。
太いマジックでそう書かれ、その下に顔写真がある。四十代くらいの男で、証明写真のように真面目な顔をしていた。名前、年齢、身長、おおよその服装。最終確認場所は川沿い西区画。見かけた方は下記まで。連絡先の電話番号は、途中の数字がにじんで読めなくなっている。
張り紙の下半分は雨でふやけ、写真の男の顎のあたりが波打っていた。そのせいで、男が少し笑っているようにも見えた。ヨミは顔を近づけた。写真の左下に、うっすらと黒い指紋がついている。貼った人間のものだろう。あるいは、剥がそうとしてやめた誰かのものか。
その張り紙の横には、もっと古い行方不明の紙が半分だけ残っている。こちらは名前も読めない。ただ、紙の中央に空いた穴だけが、まるでそこから誰かが抜けていったみたいに見えた。
ヨミはしばらく、何も考えずにその紙を見ていた。
この街では、消えた人間について長く話すのは野暮とされる。あいつは東へ流れた、いや上へ上がった、いや川に喰われた、いや別の名でまだいる。どの言い方も、半分は冗談で半分は本気だった。生きていると信じたい者のための言い換えがいくつかある一方で、本当にそういうふうにしか説明できない失踪もある。川は時々、拾う前の物だけではなく、拾われるはずだった物まで持っていく。
張り紙の隅が、朝の風でぺらぺら鳴った。裏の紙に書かれた別の文字が、一瞬だけ見える。退去期限、という字だった。次の瞬間にはまた隠れた。
ヨミは目を逸らし、歩き出した。見てしまったものに意味をつけると、一日が重くなる。
宿舎群を抜けると、道は緩く下り、やがて旧保護住区へ続く分岐にぶつかる。住区は、谷底の工場街にくっつくように残った、古い収容施設の跡だ。もともと戦後の何かのために建てられたらしい、ということだけは皆が知っている。孤児のためだとか、労働訓練のためだとか、病人の一時隔離のためだとか、説は複数ある。建物は同じ顔をして並び、廊下は長く、部屋は狭く、食堂だけがやけに広い。いつ、誰のために設計されたのか曖昧になったあとも、そこにはいつも「一時的に住むはずの人間」が溜まり続けた。今では一時の方がずっと長い。
分岐の先に、朝の配給列が見えた。まだ時間前なのに、十人ほどが並んでいる。手押し車を持った老人、寝癖のままの若い母親、制服のまま煙草をくわえた高校生風のやつ、杖の先にビニール袋を提げた痩せた女。並んでいる者たちは互いにあまり話さないが、誰がいつから来ていないかだけはよく知っている。その列を横目で見ながら、ヨミは住区へは入らず、食堂のある東側の坂道へ回った。
坂道の途中には、小さな商いがいくつか並んでいる。釘と石鹸を同じ棚に置いている雑貨屋、時計を直す代わりに犬の首輪も繕う店、義手の指を一本から売ってくれる修繕工房、昼前から開いているのに何を出すのか毎日変わる立ち飲み屋。それぞれの店先には、その店独自の臭いがある。油、酢、漂白剤、金属粉、線香。ヨミは通りすぎるたび、体が勝手に呼吸の深さを変える。何度も同じ匂いの中を生きていると、鼻の方が先に暮らしを覚える。
修繕工房の前で、若い男が片脚の義足を外し、路肩に座り込んでいた。工房の主がしゃがみ込み、ボルトの締まり具合を確かめている。
「昨日より鳴かなくなった」と若い男が言った。
「嬉しいことみたいに言うな」と主が返す。
「鳴くんだよ、俺の膝」
「おまえの膝じゃなくて部品だ。詩人ぶるな」
工房の主は顔も上げず、レンチを回した。若い男は目だけでヨミに挨拶してきたので、ヨミも顎を少し動かした。この街の連中は、壊れている場所をあまり隠さない。そのかわり、壊れていることを丁重に扱いもしない。痛みを痛みとして特別扱いしないことが、時々ひどく乱暴で、時々ひどく楽だった。
坂の上まで来ると、共同食堂の屋根が見えた。昔は車庫だったらしい横長の建物を改装したもので、外壁には何色塗り重ねたのか分からないほどペンキの層が厚い。看板には「共同食堂 舟板」と書かれているが、板の字の右半分は剥げていて、初めて来た人間には「舟反」にしか見えない。屋根の上には誰かが勝手に増築した物置が乗っていて、そこから細い煙が出ていた。まだ開店前だが、厨房ではもう湯が沸いているのだろう。
食堂の前には、壊れた自転車が三台、壊れていない自転車が一台、タイヤのない乳母車が一台置いてある。壊れていないものの方が珍しいのに、盗まれるのはだいたいそちらだ。
ヨミが引き戸を開けると、湯気と味噌の匂いが一気に顔へ当たった。
「遅い」
そう言ったのは、鍋の前に立っていた女だった。黒髪を後ろで雑にまとめ、袖を肘まで捲り上げている。眼鏡の片側にだけ湯気が曇っていた。アカネだった。
「まだ開いてない」
「開いてなくても、人手はいる」
「開いてないなら客もいない」
「客は来なくても腹は減る」
アカネは杓文字で鍋をかき混ぜながら、こちらも見ずに言う。昔、ほんとうに新聞記者をしていたのか、街の連中は半分だけ信じている。本人は否定も肯定もしない。ただ、話を聞き出すのがうまい。相手が喋りたくないことほど、先にどうでもいい話から始める癖がある。そして聞いたことをすぐには使わず、街のいちばん湿った場所で寝かせてから、別の形で出してくる。そういうところがある。
厨房の奥では、大鍋が二つ火にかかっていた。一つは汁物、もう一つは粥だろう。壁には今日の献立が貼ってある。大根の葉の味噌汁、芋の煮ころがし、漬けすぎた何か、運がよければ卵。最後の一行はいつも曖昧だ。運はこの食堂では食材の一種だった。
「何取れた」とアカネが聞く。
「銅線と真鍮の札」
「札は見せて」
「値段つける気か」
「記事にするかもしれない」
「記事にして腹は膨れるのか」
「誰かの腹は膨れる。たぶん、私のじゃないけど」
ヨミは袋から真鍮の札を二枚取り出し、濡れ布巾の上に置いた。アカネは杓文字を鍋に立てかけ、眼鏡を押し上げて札を覗き込む。片方には「B-12」、もう片方には「隔-3」とだけ刻まれている。隔の文字だけが深く彫られていて、不釣り合いなくらい鮮明だった。
「隔ねえ」
「何の隔だ」
「さあ。隔離、隔室、隔壁、隔世の感、なんでもある」
「役に立たないな」
「役に立つ言葉ばっかり使ってると、口の中が痩せるよ」
アカネはそう言って、札を指先で弾いた。薄い金属音がして、少しだけ店の空気が締まる。こういう音がこの街では時々、人の会話より先に記憶を引っ張る。
「西の宿舎、また行方不明が出てた」
ヨミが何気なく言うと、アカネはすぐに反応した。
「見た?」
「見た」
「顔は」
「四十くらい」
「青い作業帽のやつか」
「覚えてるのか」
「春先に二回来てる。汁物だけ食って帰る人。塩を入れすぎる癖があった」
ヨミは少し黙った。アカネは街の人間を、名前より癖で覚える。塩を入れすぎる、椅子を必ず引きずる、左の耳だけ赤い、食べる前に箸を揃える、話の途中で窓を見る。そういう細部で人間を掴む。たぶん、その方が失ったときに残るからだ。
「その人、いなくなったの」
「張り紙が出たなら、今のところは」
「今のところ」
「灰渠では、失踪と死はちょっと違う。死んだって決めるには、死体が要る。死体が出ても、たまに違うことがあるけど」
「便利な街だな」
「不便な街だよ。便利なのは、諦める方法だけ」
食堂の入り口がまた開き、冷たい外気と一緒にクマが入ってきた。肩幅の広い男で、まだ朝だというのに少し酒の匂いがした。作業着のジッパーは半分までしか上がっておらず、首元から焼けた皮膚がのぞいている。腕の火傷痕は今日も隠していない。隠さないというより、隠すことに意味がない身体だった。
「まだ客来てねえのに、もう湿っぽい話してんのか」
「クマが来る前に済ませとこうと思って」
「俺が来ると湿気飛ぶみてえに言うな」
クマは笑いながら、勝手知ったる様子でカウンターの内側に回り込み、ヤカンを持ち上げて湯を注いだ。自分の分だけではなく、ついでに湯飲みを三つ並べる。この男の世話焼きは、世話を焼いているという自覚のない手つきで出てくる。だから、される側が礼を言う間がない。
「西の堤、今朝また役所のやつ見に来てたぞ」とクマが言った。
「赤いヘルメットの?」アカネが聞く。
「いや、今日はスーツの連中もいた。靴の底が綺麗すぎる」
「最悪」
「何が」
「本気で動いてるってこと」
アカネは湯飲みを受け取りながら、眉をひそめた。ヨミは何も言わなかったが、胸の奥に細い針のようなものが立つのを感じた。
再開発の噂は、去年の冬から街をうろついている。最初は上の市街地の話として始まった。空き地になった倉庫群を物流拠点にするとか、高台に新しい複合施設ができるとか、そういう、谷底の人間には縁のなさそうな話。だが春先になって、川沿いの堤防補強だの、旧住区の耐震調査だの、道路拡幅だのという具体的な語が降りてきた。役所は説明会をやったが、説明よりも「ご理解をお願いします」という言葉の方が多かった。理解はだいたい、出ていけという意味だと、この街の人間は知っている。
「住区の方も測ってるらしい」とアカネが言った。
「何を」とヨミ。
「建物の歪み。あと住民の数」
「今さら?」
「今さらだからよ。数えるのは、減らす前だ」
クマは湯をすすって、顔をしかめた。熱すぎたのか、話の内容のせいか分からない。
「役所の連中だって、全部追い出したいわけじゃねえだろ」
「そういう言い方する時点で、もう危ない」とアカネは言う。
「じゃあ何だ、全部悪人か」
「悪人の方がまし。悪人は自分でやってるって分かってる。いちばん厄介なのは、正しいことの書式で人を剥がすやつ」
「剥がす」
「この街から生活を。壁から古いポスター剥がすみたいに」
ヨミは湯飲みを持ったまま、入口のガラス越しに外を見た。曇ったガラスの向こうで、坂道を誰かが上がってくる。配達用のボックスを背負った女だ。住区のユキだろう。時間が少し早い。坂の途中で一度立ち止まり、こちらを見た気がしたが、そのまま角を曲がって見えなくなった。
「住区なくなったら、みんなどこ行くんだろうな」
ヨミは、自分でも考える前に言葉が出ていた。
アカネとクマが、一瞬だけ黙る。
「どこか、という言い方がもう上の人間っぽい」とアカネが言った。
「どういう意味だ」
「行く場所がある人の言い方」
「じゃあ何て言えばいい」
「散る、かな」
「花かよ」
「花より軽いよ、たぶん」
クマが湯飲みを置く音が、少しだけ強かった。
「散るとか言うな。勝手に」
「勝手じゃない。たいていそうなる」
「たいていで済ませるな」
「済ませてないから、私はここにいるの」
空気が少し張る。だがそれも、この食堂では珍しくなかった。湯気の向こうで言い争いが起き、次の客が入ってきたら味噌汁の温度の話に変わる。深刻さと日常が隣同士に座り続ける。それがこの店の普通だった。
最初の客は、開店時間ぴったりにやって来た。片耳の欠けた老人で、毎朝同じ席に座る。次に入ってきたのは、夜勤明けの警備員ふうの女、そのあとに住区の子どもを二人連れた母親、杖をついた中年男、新聞の束を抱えた郵便配達、顔のいい酔っぱらい。食堂はすぐに、人の体温と湯気と会話で満たされた。今日の米は少し柔らかすぎる。味噌汁が薄い。いや昨日が濃かった。卵はあるのか。ない。じゃあ卵の話を献立表に書くな。夢を持たせるため。夢は飯にならない。なる時もある。ならない。そういうやりとりを、アカネは片耳で拾いながら、片手では手際よく茶碗を並べていく。
ヨミも配膳に回った。盆を持ち、味噌汁をこぼさないように歩き、空いた皿を下げる。動いているうちに、張り紙の男の顔は頭から少し遠ざかった。だが完全には消えない。人間は、見たくないものほど体のどこかに残す。今日はそれが、右肩の奥に小さな重さになっていた。
昼に近づくころ、アカネが裏口から手招きした。ヨミが表の混雑をクマに任せて外へ出ると、食堂の裏手、古い冷蔵庫の残骸のそばにアカネが立っていた。煙草には火をつけていない。ただ咥えているだけだ。
「朝の続き」と彼女は言った。
「何」
「再開発の話」
「まだあるのか」
「ある。役所のサイが来る」
「今日?」
「夕方。表じゃ話せないって」
ヨミは壁にもたれた。食堂の裏は、表より川の匂いが濃い。少し下ると排水路につながっていて、そこからいつも湿った風が上がってくる。
「サイは何て」
「まだ言ってない。言わないで来るタイプ」
「面倒だな」
「面倒じゃない人間、灰渠にいる?」
「いない」
「でしょ」
アカネは煙草を指で弄びながら、少しだけ目を細めた。
「でもね、今回はたぶん、住区だけの話じゃない」
「じゃあ」
「川沿い全部」
「食堂も」
「食堂も、工房も、宿舎も、たぶん廃工場も」
ヨミは返事をしなかった。言葉が先に出ると、現実がそちらへ寄ってくる気がしたからだ。
「たとえばさ」とアカネが言う。「この街のこと、上は何て呼ぶと思う?」
「灰渠」
「それは私らの呼び名。役所は違う。たぶん『低未利用地』『危険区域』『整備対象地区』『老朽ストック集積地』みたいな言い方する」
「長いな」
「長いほど、人間が消える」
「消える?」
「『住んでる人がいる街』って言い方をしなくて済む」
ヨミは、食堂の裏壁を見た。そこには古いポスターや注意書きが何層にも貼られ、その上に子どもの落書きや、酔っ払いの悪口や、誰かの電話番号が走り書きされている。壁の上半分は油煙で黒く、下半分は雨で流されて色が抜けていた。その真ん中あたりに、白いチョークの細い線が見えた。
最初は、ただの擦れた跡に見えた。だが近づくと、文字になっていると分かる。
アカネはヨミの視線の先を追い、「ああ、それ」と言った。
「誰が書いたか知らない?」
「知らない。今朝来たらあった」
「前からあったんじゃなくて」
「うん。新しい。たぶん夜のうち」
チョークの文字は、子どもが書いたにしては整いすぎていて、大人が書いたにしては少しだけ震えていた。こう書いてある。
ここで眠ったものは、みんな少しだけ川の夢を見る。
それでも朝になると、腹が減る。
だから生きろ。
その下に、別の筆圧で小さく返事のようなものが足されている。
腹が減らなくなったら?
さらに、その横にもう一行。
誰かに呼ばれるまで待て。
壁の文字は、街の人間がたまに残していく祈りに似ていた。祈りと言っても、教会や寺にあるような立派なものではない。もっと雑な、貼り紙の余白に書く独り言みたいなものだ。昨日の夕方、ここで誰かが立ち止まり、チョークを握った。そんな小さな事実だけで、壁が急に人の肌に近く見える。
ヨミは文字のすぐ横に、別の古い落書きがあるのに気づいた。塗料の下から半分だけ顔を出したそれは、以前誰かが刻んだ文句らしい。
失くしたものを数えるな、残ってる皿を数えろ。
食堂らしい悪趣味だ、とヨミは思った。だが、その悪趣味に救われる日もある。
「これ、記事にしないのか」とヨミは聞いた。
「しない」
「珍しいな」
「これは記事にすると死ぬ種類の文」
「文にも種類があるのか」
「ある。晒すとただのきれいごとになる文と、晒さないから残る文」
アカネはようやく煙草に火をつけた。煙は細く上がって、湿った空気の中であまり広がらずに消えた。
「ヨミ」
「何」
「この街で、あんたは何を失いたくないの」
問いは軽い調子で投げられたのに、真ん中だけが重かった。ヨミはすぐには答えなかった。失いたくないものを口にすると、それが輪郭を持ってしまう。輪郭を持ったものは、いつか奪われる側に回る。
川の方から、遠くで何かの崩れる音がした。乾いた壁が一枚、遅れて倒れたみたいな音だ。表では誰かが笑っている。味噌汁のおかわりを巡って、また揉めているのかもしれない。日常は、いつだって無遠慮に続いている。
ヨミは壁の文字に目を戻した。
ここで眠ったものは、みんな少しだけ川の夢を見る。
それでも朝になると、腹が減る。
だから生きろ。
この街では、死や失踪や壊れることは、天気ほど当たり前ではないにしても、出来事としては珍しくなかった。だが腹が減ることだけは、誰の身にも平等に起きる。腹が減る限り、人は鍋のある方へ戻ってくる。鍋のある場所には席があり、席があるところには、まだ人を人のまま置いておく余地がある。
それを失いたくない、と思った。
食堂そのものかもしれない。ここに集まる連中の顔かもしれない。クマの雑な湯の注ぎ方、アカネの口の悪さ、住区の子どもが勝手に厨房へ入ってきて怒鳴られること、味噌汁の塩加減が毎日少し違うこと、雨の日には床が妙に滑ること。そういう、あまり意味のないことの積み重なり。誰にも歴史として数えられないもの。だが、人間がここで生きていた証拠としては、それしかないもの。
ヨミは、答えの代わりに壁の下の方へしゃがみ込んだ。足元に、折れたチョークが短く落ちている。彼はそれを拾い、少し考えてから、空いている場所に小さく書いた。
湯気。
それだけ書いて、立ち上がる。
「何それ」とアカネが笑う。
「答え」
「詩人みたい」
「嫌か」
「似合わない」
ヨミはチョークを元の場所へ置いた。チョークの粉が指先に白くついた。その白さだけが、この街では少し珍しかった。
表からクマの声が飛んできた。
「おい、ヨミ! 卵一個見つかったぞ! どうする、記事にするか!」
アカネが吹き出した。
「ほら、湯気より先にそっちだ」
「卵は大事だろ」
「もちろん。詩よりずっと」
ヨミは、食堂の裏から表へ戻るために引き戸へ手をかけた。そのとき、もう一度だけ振り返る。壁の文字は、午後の薄い光のなかで、さっきより少しだけくっきり見えた。まるで誰かが書いたのではなく、もともとそこに埋まっていた言葉が雨上がりに浮いてきたみたいだった。
この街で、あなたは何を失いたくない?
壁はそう問いかけていた。
ヨミは答えを持たないまま、引き戸を開けた。湯気と騒がしさがまた顔に当たる。鍋の匂い、誰かの笑い声、茶碗のぶつかる音。谷底の昼が、壊れたままの形で確かに始まっていた。
