月の味|シロクマ文芸部
月の味をもう忘れてしまった。
子どもの頃は、毎年十五夜の月を食べた。祖母が屋根に上って、長い柄杓で月をすくい取るのを、私は縁側から見上げていた。
「今年は甘いかな」
祖父がそう言うと、祖母は笑って答えた。
「さあ、食べてみないとね」
すくい取られた月は、白い椀に入れられて食卓に並んだ。
とろりとして、淡く光っていた。木製の匙ですくって口に運ぶと、ひんやりとして、ほのかに甘かった。
けれどどんな甘さだったのか、今となっては思い出せない。
祖父母が亡くなってから、月を食べなくなった。いや、食べられなくなった。どうやって月をすくい取るのか、父や母も知らなかった。
「お父さんは本当に月を食べたことがあるの?」
娘に訊かれたことがある。私は頷いた。
「あったよ。昔の人は、みんな食べていたって、おじいちゃんとおばあちゃんが言っていた。」
「どんな味だった?」
答えられなかった。忘れてしまったから。
それでも、ひんやりとした感触だけはずっと覚えている。舌の上で溶けていく、あの冷たさを。
ある秋の夜、娘が庭で何かを探していた。
「何してるの」
「月、すくえないかなって」
見上げれば、満月が中天に浮かんでいた。
「無理だよ。あの柄杓がないと」
「じゃあ、まず柄杓を探そう」
娘は真剣だった。私は首を横に振った。
「たぶん、もうどこにもないんだよ」
娘は黙って月を見上げていた。
やがて、ぽつりと言った。
「じゃあお父さんが、月を食べた最後の人なんだね」
最後——その言葉が胸に刺さった。
私が忘れてしまったことで、月の味は本当に消えてしまったのかもしれない。
「ごめんね」 思わず謝っていた。
娘は不思議そうに私を見た。
「何?」
「月の味を、覚えてなくて」
娘は少し考えてから、微笑んだ。
「でも、ひんやり、とろりとしていたんでしょ」
「うん」
「それを覚えているだけでも、いいじゃない」
風が吹いて、庭の木々がざわめいた。月明かりが、娘の髪を白く照らした。 忘れてしまった味。伝えきれない思い出。けれど確かに、あの冷たさは口の中に残っている。
娘は縁側の私の傍らに腰かけ、月を見上げながら言った。
「きれいだよね」
私は頷いた。
二度と食べることはできなくても、見上げることはできる。一緒に、何度でも。
#シロクマ文芸部 #月の味
#共創 #ショートショート #私の作品紹介 #スキしてみて
🧡 スキ 🤝 フォロー 💬 コメント…のいずれかでもいただけたら、とても励みになります!
