一年間分の清算|せりふ三題噺
午前四時の空気は、肺に入れると微かに鉄の味がする。
それは終わっていない夜だからなのか、始まっていない朝だからか。
リビングのテーブルを占拠しているのは、崩壊を始めた領収書の山。
一年間、見て見ぬふりをして溜め込んだツケが、今まさに私たち夫婦を裁こうとしている。二月の寒さは、窓ガラスを隔てても容赦なく忍び込んで来る。
「寒い」
私が独り言のように呟くと、向かい側で電卓を叩いていた妻が、ポケットから何かを取り出して投げてよこした。
まだ封を切っていない使い捨てカイロ。
「ありがとう」
封を切って軽く振る。肌に当てると薬の様に、あるいは遅効性の毒のように、じわじわと熱が広がり始める。
二月二十日の朝。確定申告の受付が始まって最初の週末。
別に今日やらなくてもいい。期限はまだ一ヶ月もある。
それなのに、私たちはまるで何かに取り憑かれたように、昨夜から一睡もせずにこの作業に没頭していた。
レシートの山との格闘は、記憶の地層を掘り返す作業に似ていた。一年分の過去。
「この六月のイタリアン、誰と行ったの?」
「ああ、あれは接待で……」
「ふうん。結構高いワイン開けたのね」
務めて平坦な妻の声、平静を装う私の答え。
三月のやたらと高いのど飴のレシートは、私が風邪をひいて寝込んだ時のものだ。あの時、彼女は何も言わずに看病してくれた。
八月のリゾートホテルの領収書。それを見たとき二人で少しだけ手が止まった。あれは、久しぶりの二人の旅行。そして、些細なことで大喧嘩をした旅行だった。
確定申告は、国に対する所得の報告だが、夫婦にとっては一年間の生活の監査だ。隠していた無駄遣いも、忘れようとしていた諍いも、すべて白日の下に晒される。
「……なんで今日なんだろうね」
私がぽつりと漏らすと、妻の手が止まった。
「え?」
「いや、だから。もっと余裕を持ってやればいいのに、なんでわざわざ、一番寒い時期に、徹夜までして、今やっているのかなって」
妻は、冷めたコーヒーを一口飲んで言った。
「やらないと、見過ごしちゃうからじゃない?」
「何を?」
「色々なことを。一年分の、埃みたいなもの」
遠くで、ガタン、と重たい音が響いた。
始発列車が動き出したのだ。夜が、終わる音だった。
「よし、あと少し」
妻が再び電卓に向き直る。
窓の外が、群青色から薄い茜色へと滲み始めていた。
二人の監査はもうすぐ終わる。完璧な申告なんてできるはずもない。
それでもこうして、私たちはまた、新しい一年を始めていく。
私のポケットの中で、カイロは確かな熱を放っていた。
はらとけい さんのせりふ三題噺に参加いたします。
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はもちろん税金ではありません😊
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