朝の記憶|風まかせ文芸部
パン屋の前を歩いていた私は、漂ってくる香りに足を止めた。
焼きたてのパンの匂い。
甘いイーストの香りと、小麦粉の優しい匂いが混じり合って、朝の空気を包んでいる。
気がつくと、私は二十年前の台所にいた。
母が朝早くから捏ねていたパン生地を思い出す。私が起きる頃には、もうオーブンから香ばしい匂いが漂っていた。
「おはよう。今日はクリームパンよ」
エプロン姿の母が振り返って微笑んだ。焼きたてのパンを冷ましながら、私の朝食を用意してくれる。
あの頃は当たり前だと思っていた。毎朝、手作りのパンがあることを。温かい朝食で一日が始まることを。母がどれほど早起きして準備してくれているかも知らずに。
今の私は、コンビニのパンで朝食を済ませることが多い。便利だし、美味しいし、何の不満もない。
でも、あの頃の焼きたての温かさは、手に入らない。
あの台所は、もうない。母も、もういない。
でも、作り手は変わっても、この香りは受け継がれている。
パン屋のおじさんが焼いてくれるこの香りが、誰かの朝を包んでいる。
温かい朝の始まりは、今も続いている。
店の扉を開けると、若いお母さんが子どもと一緒にパンを選んでいた。
「どれがいい?」と優しい声が尋ねている。
私も一つ、買って帰ろう。今朝は、焼きたてのパンで一日を始めたい。
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