月が綺麗だね、と|片想い文芸部
月が綺麗だね、と言えなかった夜のことを、時々思い出す。
あれは大学三年の秋だった。文学サークルの飲み会の帰り道、駅まで一緒に歩いていた君が、ふと空を見上げて「今夜は月が出てるね」と呟いた。
その時、頭の中を夏目漱石の有名な逸話がよぎった。「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという、あの話。
けれど、 「うん、そうだね」 そんな当たり障りのない返事しか僕はできなかった。 口の中で何度も反芻した言葉は外に出ることはなかった。
君はいつも、僕の隣で自然体だった。サークルの会議でも、みんなでいる時でも、二人きりの時でも。その距離感が心地よくて、でも同時に、これ以上踏み込んではいけない一線のようにも感じられた。
結局その気持ちを伝えることはなかった。卒業後、君は地元に帰り、僕は東京に残った。たまに送られてくるSNSの近況報告で、君が元気にしていることだけは分かる。
今夜もまた、月が綺麗だ。
今の僕なら言えるかもしれない。でも、時というのは不思議で残酷だ。言える勇気を手に入れた頃には、もうその相手はそこにいない。
「月が綺麗だね」
誰もいない部屋で、一人呟いてみる。言葉は宙に浮いて、そっと消えていく。
君は覚えているだろうか。あの夜の月を。
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