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誰も呼ばなかった名前|3つのお題に空想のひらめきを|名前のない物語

亡くなった祖母の本名を知ったのは、葬儀の時だった。
「春子」 それが戸籍上の名前だったと、母から聞いた。

「でも、誰もそう呼ばなかったの」 母は言った。
祖母のことを、私たちは「おばあちゃん」と呼び、近所の人は「ミツエさん」と呼んでいた。

「ミツエって、本名じゃなかったの?」 私は驚いて聞いた。
「みんながそう呼んでいたわよね。でも、本当の名前は春子だったのよ」
母は小さく溜め息をついた。

「おばあちゃんが生まれたとき、あなたのひいおじいさんがつけた名前が春子。でも、あなたのひいおばあちゃんは気に入らなくて、ミツエって呼んでいたそうよ」

私は遺影を見つめた。
「春子という名前は書類の中だけ」 母は小さく笑った。
「おばあちゃん、『私は春子じゃない』って、よく言ってた」

数日後、祖母の部屋を片付けていると、古いノートが出てきた。
日記帳。 開くと、最初のページに「ミツエの日記」と書いてあった。
ミツエの文字だけが心なし大きい。

私はページをめくった。 日記は、祖母が二十歳の頃のものだった。
「春子という名前が嫌いだ。春に生まれたから春子。安直すぎる」
そんな文章が、最初のページにあった。
「母は私をミツエと呼ぶ。それが私の名前だ」

私は読み進めた。 日記の中の祖母は、自分のことを「私」と記していた。誰かに声をかけられたときの記述は「ミツエ」だった。
でも、途中で一カ所だけ、違うページがあった。 「今日、役所に行った。名前を変えようと思った。でも、できなかった。父が生きている限り、春子のままだ」

祖母の父、つまり曾祖父は、私が生まれる前に亡くなっていたので、私は顔も知らない。

私は母に聞いた。
「おばあちゃん、名前を変えたかったのね?」 母は頷いた。
「ずっと。でも、ひいおじいちゃんはおばあちゃんのことをずっと春子って呼んでいたそうよ」
「そう呼ばれるのは嫌だったんだろうな」
「どうかしらね」 母は言葉を濁した。

「それで?」
「おばあちゃんは結局、生涯名前は変えなかった」
母は窓の外を見た。

「『お父さんはもういないし、もう春子でいいわ』って、おばあちゃん言ってた。『どうせ誰も呼ばない名前だから』って」

祖母は、曾祖母と共に自分の本名を拒否し続けた。
でも、最後まで改名はしなかった。 誰も呼ばない名前。
書類の中にだけ存在する名前。

「春子」 それは、祖母にとって何だったんだろう。 葬儀の際に使われていた文字は、すべて「ミツエ様」だった。

祖母は、春子として生まれ、ミツエとして生きて、ミツエとして死んだ。
曾祖父の死とともに春子という名前は戸籍の中に眠り、誰からも呼ばれることはなくなった。

私は日記をそっと仏壇の前に置いた。

「おばあちゃん」 私は手を合わせた。
それが、私にとっての祖母の名前だった。





片桐 みかん さんの3つのお題に空想のひらめきを、に参加致します。3つのお題の中から、「誰も呼ばなかった名前」を使わせていただきました。

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