待合室の30分|ひとりじゃない②
ピアノ教室の待合室で、私は文庫本を開いていた。
娘の美咲がレッスンを受けている間の30分。この時間だけが、母親でも会社員でもない、ただの私でいられるひととき。
「お疲れさまです」
隣の椅子に座った男性が、小さく会釈をした。見覚えがある。確か、美咲と同じ曜日にレッスンを受けている男の子のお父さん。
「お疲れさまです」
私も会釈を返す。いつもなら、それで終わりの挨拶。
「お子さん、とても上手ですね。いつも聞こえてきます」
「ありがとうございます。でも、家ではなかなか練習しなくて」
そんな他愛もないやりとりから2人の会話は始まった。
それから待合室で顔を会わせる度に言葉を交わすようになった。
彼の息子さんは小学4年生で、美咲と同じ年。奥さんを亡くして3年になるという。男手ひとつで子育てをしていることを、彼は静かに話してくれたことがある。
私も、離婚から4年が経つことを話した。元夫のことは悪く言いたくないけれど、美咲との時間を大切にしたいと思っていることも。
「大変ですよね、一人で」 彼の笑顔は優しかった。
「そうですね。でも、子供がいると強くなれるものですね」
どちらも相手と自分に同時に語りかけている言葉のように私には思えた。
子供の話、仕事の話、時には美咲が発表会で弾く曲について相談することも。彼は音楽に詳しくて、いつも的確なアドバイスをくれた。
ある日、レッスンが終わった美咲が言った。
「ママ、田中おじさんと仲良しだね」
ドキッとした。子供は親が思っている以上に、いろいろなことを見ている。
「ただのお友達よ」
そう答えながら、美咲の表情を伺う自分がいた。
彼と話している時間は楽しい。彼の存在を意識している自分もいる。
でも、これは恋なのだろうか。
離婚してから、ずっと母親であることを第一に考えてきた。美咲のため、美咲との生活のため。自分の気持ちに構う余裕はなかった。
それが当然だと思っていた。
「ママは、恋愛しないの?」
ある夜、美咲が突然聞いてきた。
「どうして?」
「友達のママは、新しい彼氏ができたって。でも、私はママが一人でも大丈夫」
美咲なりに、私のことを気遣ってくれているのがわかった。
「ありがとう」
そういうのが精一杯だった。
翌週のピアノ教室。私は思い切って彼に言った。
「今度、お茶でもしませんか?子供たちも一緒に」
「いいですね。息子も、美咲ちゃんと仲良くしてもらって」
彼の顔が、ぱっと明るくなったと思ったのは私の気のせいだろうか。
そう考えると、母親である前に、私は一人の女性なのだと思った。
そして、そのことに罪悪感を感じる必要はないのかもしれない。
ゆっくりと、ゆっくりと。美咲のペースに合わせて。
レッスン室から聞こえてくる美咲が弾くバイエルは、確実に、上手になっている。
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