片栗粉の午後|片栗粉文芸部
それはある日のことだった。私はいつものように夕食の準備していた。そろそろ夫が帰ってくる時間。
郊外の一軒家。結婚して10年。子どものいない夫婦の暮らしはなれ合いのようになっていた。
細かいことを言えばきりがないが、これといった不満があるわけではない。多分こうした暮らしがずっと続くのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていた私は、料理に使うために水で溶いていた片栗粉を、うっかり床にこぼしてしまった。慌てて雑巾で拭こうとかがんだそのとき、足を取られて危うく転倒しそうになる。
「あぶない...」
何気なく呟いた言葉が、頭の中で反響した。
片栗粉がこんなに滑りやすいなんて、知らなかった。まるでスケートリンクのように、足が全く安定しない。
雑巾できれいに拭き取りながら、ふと思った。
もしこれを、意図的に使ったら?ドキドキした鼓動はいつまでも収まらなかった。
夫から、「今日は残業で遅くなる」というメールが来た。
せめて一時間前に連絡してほしかった。冷めかけた料理を前に心の中でひとり呟いた。
そういえばしばらく外食もしていないな、などととりとめないことを考えていると先ほどの足を滑らせた出来事を思い出した。
水に溶いた片栗粉を階段の途中に少し撒いておく。透明に近い白さだから、気づかれにくい。夜中にトイレに行こうとして足を滑らせたら...
いや、何を考えているんだ。
そう思う傍らで頭の中には、すでに別のアイデアが浮かんでいた。
浴室の床。ただでさえ滑りやすい場所だ。仕込んでおけば、確実に転倒する。後は水で洗い流せば証拠は残らない。
私は慌てて頭を振った。こんなことを考えるなんて、おかしい。
でも、止まらなかった。
片栗粉と水の分量を変えれば粘度が調整できる。時間が経つと性質も変わる。冷めれば白く濁って目立つが、温度管理をすれば...
携帯が鳴って、我に返った。夫からのメールだった。
「今日は飲みに行くことになった。晩ごはんはいらない」
普通なら「お疲れさま」と返すところだが、今の私は違っていた。画面を見つめながら思う。
夫が帰ってくるのは早くても十一時頃だろう。電気を消した暗い階段で、足元が見えない状態なら...
「私、何を考えてるの?」
声に出して呟いた。でも心の奥で、別の自分が冷静に計算している。
必要な片栗粉の量、撒く場所のこと、事後処理の方法。計画はどんどん具体的になっていく。
夫を殺したいわけじゃない。むしろ愛している。なのに、なぜこんな妄想が止まらないのだろう。
台所の片栗粉の袋を見る。いつもの調味料が、今は違って見える。
その夜、夫が帰宅した時、私は何事もなかったように迎えた。アルコールが入っていて足元が少し怪しい。階段を上る夫の足音を階段の下で数えている自分がいた。
十三段目で少しよろめいたのを見て、私は息を止めた。
もし、本当に片栗粉を撒いていたら...
ぞっとした。
片栗粉は、もう二度と使えそうにない。
