肩ごしの声|恋が始まる7つのレシピ③
大学へ向かう途中の電車。
車内は異様に混んでいる。どこかで事故があったらしい。自分の意志とは関係なく、押し込まれていく。必然的に誰かを押すことになる。
「押すんじゃねぇよ」
目の前にいた中年のサラリーマンが私を睨んでくる。
「すみません、でも...」
「押すなって言ってんだよ」
私は、何と言ったらよいのか、どうしたら良いのかわからずにいた。
その時、肩越しに低い声がした。
「すみません、僕の彼女なんです。つい守ろうとして前に出てしまって」
え?
私は振り返ろうとしたが、後ろから軽く肩を押さえられた。
「混んでるから気をつけようね」
優しい声で、まるで本当に恋人に話しかけるように。
サラリーマンは少し見上げるように振り返ると、ばつが悪そうに舌打ちをして黙った。
しばらくして、電車が止まった。今度は後ろ向きに押し出されていく。
車外に出た時、背中からあの声が聞こえた。
「大変だったね。あのおじさん、機嫌悪そうだった」
振り向いた私は、その人の胸を見つめることになった。
スポーツマンらしい体格。けれど、優しい声。
「あの、ありがとうございました。見ず知らずの私のために」
「いや、見ず知らずじゃないよ。心理学の講義、一緒に受けてるでしょ?」
やっと顔を上げた私。見覚えのある顔がそこにあった。
「僕、そんなに影が薄いかな」
影が薄いなんてとんでもない。いつも友達に囲まれている彼を、私は遠くから見ていた。私には縁のない世界。
「人の行動パターンを観察するのが好きなんだ。心理学専攻だから」
彼は少し照れたように笑った。
「君、いつも教室の左側三列目に座るよね」
私の頬が熱くなった。そんなところまで見られていたなんて。
再びの車内。私は言葉をつなぐことができない。彼もそれ以上は話しかけてこなかった。
目的の駅で、「それじゃあ、友達と約束があるから」
そう言うと彼は駆けていった。
せっかくのチャンスだったのに。臆病な自分が恨めしい。
次の日。今日は心理学の講義がある。
私は決心した。いつもの左側三列目ではなく、もう少し前の席に座ってみよう。
教室に入ると、彼がもういた。友達と楽しそうに話している。
私は二列目の席に座った。
講義が始まって十分ほど経った頃、後ろから小さな紙が回ってきた。
『恋人のふりをしちゃったけど、怒っていない?』
私は振り返った。彼が小さく手を振っている。
紙の裏に書いた。
『ううん、助けてくれてありがとう』
また紙が回ってくる。
『今度はもう少し、ちゃんと話そうか』
私は頷いた。肩越しに聞いた、あの優しい声を思い出しながら。
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