憧れ|恋が始まる7つのレシピ⑦
休日の美術館は静かだった。
平日の仕事に疲れて、なんとなく足を向けた現代アート展。特に詳しいわけではないけれど、美しいものを見ていると心が落ち着く。
モネの「睡蓮」の前で、私は足を止めた。
好きな絵だが、足を止めたのにはもうひとつの理由があった。
絵の前でスケッチブックに向かって筆を動かす男性。研ぎ澄まされたようなまなざしと静謐な横顔。絵と対話をするかのようなその繊細な手の動きに目を奪われた。
私はそっと近づいて、彼のスケッチを覗き見してしまった。
息を呑んだ。
それは単なる模写ではなかった。モネの睡蓮が、新たな命をもって紙の上に映しとられている。その光の表現には吸い込まれるような優しさがあった。

「すみません」
彼が顔を上げた。私は慌てて一歩下がった。
「いえ、こちらこそ、覗いてしまって」
「よろしければ」
彼はスケッチブックを少し私の方に向けてくれた。
「素敵な絵ですね。プロの画家の方ですか?」
「いえ、美大の院生です」
やっぱり。私なんかとは住む世界が違う。
「この色彩、どう表現するか迷っていたんです」
彼はモネを見上げた。
「光が水面に反射する瞬間の色って、一色じゃないんですよね。青にも緑にも紫にも見える」
同じ絵を見ながら、彼は私とは違うものを見ていた。
「そうですね」
そんなことしか言えない自分が情けない。
そんな私の思いをよそに、彼は真剣に絵の話を続けてくれた。筆致の話、色彩理論の話。私にはほとんど理解できなかったけれど、彼の情熱が伝わってきて、胸が熱くなった。
「僕、話が長くてすみません」
彼が苦笑いした。
「いえ、とても勉強になります」
「こちらによく来られるんですか?」
「ええ、時々」
「僕もよく来るんです。この時間帯が一番集中できるので」
彼はスケッチブックを閉じた。もう帰るのだろうか。
「それでは」
彼は軽く会釈をして歩いて行った。
私は一人、モネの前に残された。
さっきまでは美しいとだけ思っていた絵が、今は全く違って見える。彼が見ていた世界を、少しでも理解したくて、もう一度じっと見つめた。
彼みたいに絵を理解できたら。彼みたいに思いを形にできたら。
そんなことを考えている自分に気づいて、少し笑ってしまった。
次の休日、私はまた美術館に来ていた。同じ時間に。
彼がいるかもしれない。いないかもしれない。
今度は小さなスケッチブックを買って、持参していた。下手でも、何か描いてみようと思って。
彼に近づきたくて。
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