だしの記憶|片口鰯文芸部
「だしが命なんだよ」
そう言いながら、彼は丁寧に煮干しを水に浸していた。一人暮らしの男性が、こんなに手間をかけて料理を作ることに、私は驚いていた。
「覚えておいた方がいいよ。将来、役立つから」
「僕と結婚してぇ」誰かが、からかって彼に言った。皆が笑った。
私たちは彼の引っ越しの手伝いに来ていた。あらかた片付いた部屋で彼は嬉々として料理の下準備をしてくれていた。
結婚。その言葉に、私の妄想は膨らんだ。彼のために、料理をすることを。彼が私だけの料理を作ってくれることを。二人で並んでキッチンに立つことを。
けれども彼にとって私は、友達のひとりでしかなかった。彼の笑顔も、優しい言葉も私だけに向けられることはなかった。
あれから二年。
……スーパーの「煮干し」という名札が、そんなできごとを思い出させた。
手に取ったパッケージを見ると、小さく「片口鰯使用」と書かれている。
彼はもう自分で料理をすることもないのだろうか。
彼のお味噌汁を、今は誰かが食べているのだろうか。
あの日のことも、だしの取り方を教えたことも、彼はもう覚えてもいないのだろう。
小さな煮干しパックを握りしめながら、私はひとり立ち尽くしていた。
群れで泳いでいた頃の自分を思い出すことしかできない、小さな片口鰯。
