忘れたい|ひとりじゃない|シロクマ文芸部
忘れたい。忘れてしまいたい。けれどそれは息子の権利を奪うことになるのかもしれない。
「なんで僕には父さんがいないの?」
高校生になった息子が、私にそう問いかけてきた。 ずっと聞きたかったに違いない。けれど彼はこれまで聞かないでいてくれた。
私は答えに窮した。あの人のことを、どう説明すればいい? そんな私をみて、息子はそれ以上尋ねなかった。
あれから一週間。深夜、私は台所で一人コーヒーを飲んでいる。息子の部屋からは音楽が聞こえてくる。勉強をしているのか、それとも何か悩んでいるのか。最近の息子は、口数が少なくなった。
十七年前、私は今の息子と同じくらいの年齢だった。あの人と出会ったのは、そんな頃。 彼は年上で、私に優しかった。家庭のことで悩んでいた私はすぐに恋に落ちた。彼はとても大人びて見えた。
酒に溺れがちで、仕事が続かない人だった。妊娠を告げた時、彼は黙り込んだ。「責任は取る」とだけ呟いた。
コーヒーカップを洗いながら、当時を振り返る。
結婚してからも、彼の不安定さは変わらなかった。息子が三歳の時、彼は「やり直したい」と言って家を出た。その後の彼を、探そうという気に私はなれなかった。
忘れてしまいたいのは、あの頃の自分。そして彼のこと。なぜ彼の不安定さを愛だと思ったのか。なぜもっと慎重になれなかったのか。
でも、彼と出会ったから息子がいる。
息子には何を伝えればいいのだろう。父親の不在を謝るべきなのか、私の選択を説明するべきなのか。
息子の部屋の音楽が止み、ドアの隙間から漏れていた電気も消えた。
明日の朝、息子はきっといつものように「おはよう」と言ってくれる。私は「おはよう」と返す。 そうしてまた一日が始まる。
次に同じ問いを息子が発したときに、私は何と答えれば良いだろう。
忘れたい記憶も、忘れられない想いも、息子と共にある。
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