黙々と|放課後ライティング倶楽部
大晦日の夜の塾はひときわ静かだ。
生徒たちは黙々と問題を解いている。
換気のために窓を開けると、どこかの家のテレビから紅白歌合戦の音が聞こえてくる。
「先生、もう八時です」
教室の後ろにいる、アルバイトの大学生が声をかけてきた。
「ああ、そうだね」
本来なら七時半までの授業だ。
模擬試験をその時刻に終えたが、生徒たちはまだ誰も帰ろうとしない。
「少し休憩にしよう。だけどみんな帰らなくていいの?紅白、始まってるよ」
生徒の一人が顔を上げた。
「先生こそ、帰らなくて大丈夫なんですか」
「私は独り身だから」 苦笑いしてそう答えた。
コンビニで買ってきたクロワッサンを配った。
帰りがけに渡そうと思っていたものなので、温かくもない。
袋入りのままだったが、生徒たちは嬉しそうに受け取った。
「ありがとうございます」
「大晦日なのにね。本当は年越しそばとか食べてる時間だろうに」
先ほどの生徒は首を横に振った。
「受験終わってから、ゆっくり食べます」
その言葉に、他の生徒たちも頷いた。
受験時代、自分も、大晦日に塾に来た。
遅くに帰宅して勉強をしていると母が夜食を作って持ってきてくれた。
「無理しないでね」と言われたが、顔も上げずに「後で食べる」と答えた。
結局、第一志望には落ちた。
でも、今の後悔は、あの時、母に「ありがとう」を言わなかったこと。
合格より大切なものがある、と今なら分かる。
十時を過ぎて、生徒たちが帰っていく。
「先生、良いお年を」
「うん、君たちも」
最後の生徒が振り返って言った。
「先生、今日はありがとうございました。クロワッサン、美味しかったです」
「どういたしまして。お母さんにも、ちゃんとありがとうって言うんだよ」
彼は少し不思議そうな顔をしたが、頷いて帰っていった。
彼の後姿を見送って、私は教室に戻った。 誰もいない教室。黒板には、今日解いた問題が残っている。
ひとつ残っていたクロワッサンを頬張る。甘さが口に広がる。
来年の今頃、この子たちはどうしているだろう。
どうか笑っていてほしい。
そして、周りの人への「ありがとう」を忘れないでいてほしい。
そう願いながら、私は黒板を消した。
新しい年が、もうすぐ始まる。
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