『春を運ぶ配達人』第8話「薄れていく春の人」
夕方は、境界を曖昧にする。
昼でもなく、夜でもない時間。
色も温度も、はっきりしないまま混ざり合って、街の輪郭を少しだけぼやけさせる。
ユウは、商店街の外れに立っていた。
シャッターの半分降りた店。
古びた看板。
人通りは少なく、音だけがやけに遠くにある。
手には、小さな包み。
「今日は“春”じゃないよ」
ハルが言う。
いつもの調子で、軽く。
「……じゃあ何だ」
「“ほどけかけの春”」
ユウは少しだけ眉を寄せる。
「そんなのもあるのか」
「あるよ。ちゃんと来なかった春とか、途中で止まった春とか」
ハルはそう言って、くるりと回る。
——回ったはずだった。
ユウは、一瞬だけ視線を止めた。
何かが、少しだけ遅れた気がした。
でも、それが何なのかは、すぐにわからなくなる。
「行こ」
ハルはもう先に歩いている。
その背中は、いつもと変わらない。
変わらない、はずだった。
⸻
依頼人の部屋は、二階の角にあった。
ドアの前で、ユウは軽くノックする。
しばらくして、内側から足音。
扉が開く。
「……どちら様ですか」
出てきたのは、二十代くらいの女性だった。
部屋の中から、かすかに植物の匂いがする。
けれど、その匂いはどこか弱くて、途中で途切れているようだった。
「季節配達所から来ました」
ユウが言うと、女性は少しだけ考えてから、うなずいた。
「ああ……頼んだかもしれません」
部屋に入る。
窓際には、小さな鉢植えがいくつも並んでいた。
どれも枯れてはいない。
でも、どれも元気でもない。
水は足りているのに、光が足りていないような、そんな状態。
「育ててるんですか」
ユウが聞く。
女性は少しだけ笑う。
「前は、好きだったんです」
間。
「今は……なんか、よくわからなくて」
ハルは、すでに窓のそばにいた。
鉢植えを覗き込んでいる。
その横顔を見て、ユウはまた、ほんの少しだけ違和感を覚える。
輪郭が、やわらかすぎる気がした。
光のせいかもしれない。
そう思うと、もう気にならなくなる。
「何が届くんですか」
女性が聞く。
ユウは包みを差し出す。
女性はそれを受け取って、ゆっくりと開く。
中にあったのは、小さな霧吹きだった。
透明なボトル。
細いノズル。
水は入っていない。
「……これ?」
女性は首をかしげる。
「ただの霧吹きに見えますけど」
ユウはうなずく。
「はい」
「……意味あるんですか」
少しだけ、困ったような声。
ユウは少し考えてから言う。
「たぶん、あります」
女性は苦笑する。
「たぶん、かあ」
それでも、霧吹きを持って窓際へ行く。
蛇口で水を入れる。
戻ってきて、ひとつの鉢に向ける。
軽く、押す。
細かな水が、葉に落ちる。
光を受けて、一瞬だけきらめく。
その瞬間。
ハルが、小さく息をのんだ。
ユウはその音を聞いて、そちらを見る。
ハルは、じっと水滴を見ている。
その表情は、いつもより少しだけ——遅れていた。
「……きれい」
ハルが言う。
その声は、変わらない。
けれど、どこかだけ、わずかに遠い。
女性は、もう一度霧を吹く。
葉が、ほんの少しだけ持ち上がる。
変化と呼ぶには、小さすぎる変化。
でも、確かに違う。
「毎日やれば、変わりますかね」
女性が言う。
ユウは答えない。
答えられない。
代わりに、ハルが言う。
「たぶん」
間。
「でも、変わらなくてもいいと思う」
女性は少しだけ驚いた顔をする。
「え?」
ハルは、葉に触れそうで触れない距離で手を止める。
「途中でもいいし、止まっててもいいし」
「それでも、ちゃんと生きてるから」
女性は、何も言わない。
ただ、もう一度だけ霧を吹く。
今度は、少しだけゆっくり。
水滴が葉の上で丸くなる。
ユウは、その様子を見ながら、ハルのほうをもう一度見る。
そこにいる。
ちゃんといる。
でも——
何かが、少しだけ薄い。
触れれば消えてしまいそうな、そんな感覚。
ユウは、その違和感に名前をつけなかった。
つけた瞬間、壊れてしまいそうな気がしたから。
⸻
帰り道。
空は、すでに夜に近づいていた。
「ねえ、ユウ」
ハルが言う。
「なに」
「さっきの、見た?」
「……何を」
ハルは少しだけ考える。
「水」
「光ってた」
ユウはうなずく。
「そうだな」
ハルは、少しだけ黙る。
「……あれ、好きかも」
その言葉は、いつもより少しだけゆっくりだった。
ユウは、それを聞いて、何も言わなかった。
言えなかった。
言葉にすると、何かが変わってしまう気がした。
夜の空気が、静かに冷えていく。
風が、少しだけ強くなる。
その中で、ハルの輪郭が、ほんの一瞬だけ揺れた。
ユウは、見なかったことにした。
まだ、大丈夫だと思った。
思いたかった。
夕方の名残が、街の隅にわずかに残っている。
完全な夜には、まだなっていない。
でも——
その境界は、確実に近づいていた。
