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古本の読み心地は前の持ち主による

古本屋に入ると、少しだけ時間の流れ方が変わる。

新刊書店のような明るさはない。蛍光灯の光はどこか黄ばんでいて、棚の奥には紙と埃の混ざった匂いがある。通路は少し狭く、誰かとすれ違うときには自然と体を斜めにする。静かだが、完全な無音ではない。ページをめくる音や、棚から本を抜くときの擦れる音が、たまに小さく響く。

あの空間には、すでに一度読まれたものたちが並んでいる。

古本の良さは値段だけではないと思う。

もちろん安い。絶版とはいかなくても、珍しい本にも出会える。もう店頭にない装丁が見つかることもある。でも、古本には新品にはない別の要素がある。

前の持ち主の気配だ。

たとえば、文庫本を開いたとき、真ん中あたりだけ大きく開き癖がついていることがある。そこに読み応えのある章があったのかもしれない。あるいは、電車通勤で毎日そこまで読んでいたのかもしれない。

ビジネス書の序盤だけ線が引かれ、後半はまっさらなままの本もある。

決意して買ったものの、途中で忙しくなったのだろうか。最初の三十ページまでは人生を変える気だったのに、第四章あたりで現実が追いついてきたのかもしれない。

想像はいくらでもできる。

昔、古本屋で買ったエッセイ集の中に、レシートが挟まっていたことがある。

五年前のものだった。駅ビルの書店で、夜九時過ぎに買われていた。レシートには、その本と一緒に栄養ドリンクの名前も印字されていた。

その人は疲れていたのだろうか。

仕事帰りに、何かやわらかい文章が読みたくなったのかもしれない。家に帰る前、少しだけ自分を立て直したくて本屋に寄ったのかもしれない。

そういうことを考えると、読書は二人分になる。

著者の文章を読む時間と、前の持ち主の生活を想像する時間だ。

もちろん、気配が心地よいものばかりではない。

やたら強い筆圧で線が引かれている本がある。ここ大事、と言わんばかりに何度も傍線が引かれ、余白に感嘆符まで書かれている。こちらが静かに読みたい箇所ほど、妙に熱量が残っている。

ページの角が何枚も折られている本もある。

そこまで重要箇所が多いなら、もはや全部読んだほうが早いのではないかと思う。

食べ物の匂いがうっすら移っている本に出会ったこともある。カレーなのか、ミートソースなのか、判別はつかなかったが、少なくとも集中して食事してはいなかった気がする。

古本の読み心地は、前の持ち主による。

丁寧に扱われた本は、こちらも自然と丁寧に開く。雑に扱われた本は、少し警戒しながら読むことになる。書き込みの少ない本には静けさがあり、癖の強い本には会話のような騒がしさがある。

新品の本は、誰の手も通っていないぶん、まっさらだ。

それは気持ちがいい。最初の読者になれる贅沢がある。折り目もなく、匂いも均一で、物語との一対一が保証されている。

でも古本には、少しだけ人生が混ざっている。

この本を途中で手放した人。最後まで読み切った人。何度も読み返した人。積んだまま売った人。誰かにすすめられて買った人。別れた恋人からもらった本かもしれないし、引っ越しで段ボールごと手放された本かもしれない。

本そのものは同じでも、そこへ至る経路が違う。

だから古本屋では、ときどき本より先に本棚を見てしまう。

何が並んでいるかで、その人の時間が少し見えるからだ。哲学書の隣に料理本があり、語学本の横に失恋エッセイがある。人は案外、一冊ずつではなく、まとめて気配を残していく。

今日も誰かが読んだ本が、棚に戻されている。

その人の生活は知らない。名前も知らない。ただ、ページの開き方や角の丸まり方だけが残っている。

こちらはそれを手に取り、値札を見て、少し迷い、また誰かの続きを読む。

そう考えると、古本屋は静かな場所でありながら、かなり人間くさい場所なのだと思う。

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