空っぽの水槽
リビングの隅で、かつて鮮やかだった青い光の残骸が、夕闇に溶けようとしている。
一ヶ月前まで、ここには確かな「生」の震えがあった。濾過器(ろかき)が刻む規則正しい水音、気泡が水面ではじける微かな破裂音。そして、水草の影をなぞるように泳ぐ、小さな赤いネオンテトラたちの群れ。
今は、ただの重たいガラスの箱だ。
水はとっくに抜き去り、底に沈んでいた大磯砂(おおいそずな)だけが、乾ききって灰色に変色している。ガラスの内側には、水が干上がった跡が白い鱗のような線となってこびりついていた。指先でなぞってみると、ザラリとした無機質な感触が指紋に絡みつく。
それは、私たちがここで過ごした時間の、成れの果てのようだった。
「この子たち、夜になると寝るんだね」
隣でそう呟いた君の横顔を覚えている。水槽から漏れる淡いLEDの光が、君の瞳の中に小さな宇宙を作っていた。君はよく、水槽の前に座り込んで、言葉もなく何時間も魚を眺めていた。私はそんな君の後ろ姿を、少し離れたソファから眺めるのが好きだった。
あの時、この部屋の空気は確かに満たされていた。
水槽が湛える水のように、適度な湿り気と、温かな静寂で。
だが、君がいなくなってから、水槽のメンテナンスを怠るようになった。コケがガラスを覆い、水は次第に濁り、魚たちは一匹、また一匹と、銀色の腹を見せて浮いていった。最後の一匹を庭の隅に埋めた日、私はホースで水をすべて吸い出した。
ジャボジャボと音を立てて流れ出していく水を見ながら、私は自分の内側からも何かが排出されていくのを感じていた。悲しみというよりは、もっと空虚な、重力だけが残るような感覚が部屋を満たす。
現在、私の目の前にあるのは、空気を閉じ込めただけの透明な空間だ。
不思議なものだ。水が入っていたときは、あんなに存在感を放っていたのに、空っぽになった途端、そこには「何もなさ」という巨大な塊が居座っている。
窓から差し込む斜陽が、水槽のガラスを透過してフローリングに歪んだ四角い影を落とす。かつてはゆらゆらと揺れていた光の紋様も、今はただ硬く、動かない。
ふと、君が置いていったマグカップに手を伸ばす。
君がいなくなっても、部屋のレイアウトはほとんど変わっていない。ただ、水音が消え、君の声が消え、代わりに「乾燥」が支配を広げているだけだ。
喉の奥が、ちりりと焼けるように乾く。
私は立ち上がり、キッチンへ向かった。蛇口をひねり、勢いよく流れる水をグラスに注ぐ。透明な液体が器を満たしていく音。
その音を聞きながら、私は思う。
この水槽を片付けてしまえば、この空虚な重みからも解放されるのだろうか。それとも、この白い鱗のような汚れを一生懸命に拭き取れば、またあの青い光を灯せる日が来るのだろうか。
私はグラスの水を一気に飲み干し、再び水槽の前に立った。
夕闇が深まり、部屋の輪郭が曖昧になっていく。
空っぽの水槽は、今の私そのものだ。
中身を失い、湿り気を失い、ただそこに在ることだけを強いられている器。
それでも、私はまだこのガラスの箱を捨てられずにいる。
いつか、このひび割れた心に、もう一度だけ水を満たしたくなる瞬間が来るのを、この乾いた砂の上でじっと待っているのかもしれない。
暗闇の中で、水槽の角がわずかに光った。
それは、どこからか入り込んだ街灯の光か。あるいは、私の目からこぼれ落ちそうになった、ひどく場違いな湿り気のせいか。
私は静かに、スイッチを切ったままの照明に指を触れた。
