第一話 花屋の前の魔女『千年生きた魔女は、それでも人を信じたい』
春の風は、いつの時代も少しだけ懐かしい。
リリィは石畳の通りを歩きながら、そんなことを考えていた。王都の大通りは花祭りで賑わっている。
店先には色とりどりの花。
焼き菓子の甘い匂い。
子どもたちの笑い声。
楽団の演奏。
広場の噴水。
平和な光景だった。
平和な光景を見るたびに、リリィは少しだけ安心する。
そして
少しだけ怖くなる。
平和は長く続かない。
そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
だから今日は考えない。
せっかくの春なのだから。
「うーん……」
リリィは花屋の前で立ち止まった。
白い花。
青い花。
どちらも綺麗だった。
白い花は柔らかくて。
青い花は静かだった。
十分悩んだ。
十五分悩んだ。
二十分悩んだ。
店主のおばあさんが苦笑する。
「また来たね」
「うん」
「まだ決まらないのかい?」
「決まらない」
「いつも決まらないねぇ」
「いつも決まらない」
本当に決まらない。
花を一つ選ぶだけなのに。
昔からそうだった。
どちらも好きだと選べない。
捨てるみたいで嫌だから。
リリィは白い花を見た。
青い花を見た。
また白い花を見た。
結局、両方買った。
「またかい」
「また」
「お金なくなるよ」
「もうなくなりそう」
「駄目じゃないか」
「駄目かも」
リリィは笑った。
少し困ったような笑顔だった。
*
本当にお金はなかった。
財布の中身を確認して。
リリィは青ざめた。
「やばい」
思わず口に出た。
花を買った。
本も買いたい。
アクセサリーも欲しい。
宿代も必要。
食事もしなければならない。
お金が足りない。
毎回同じことをしている。
千年近く生きているのに。
成長しない。
「私って馬鹿かもしれない……」
誰も聞いていない独り言だった。
*
三十分後。
リリィは公衆便所の個室で絶望していた。
紙がない。
何度確認してもない。
上を見ても。
横を見ても。
ない。
「……」
沈黙。
「……」
さらに沈黙。
「なんで?」
誰に言うでもなく呟く。
本当に意味が分からない。
花祭りは盛大なのに。
紙はない。
「嘘でしょ」
頭を抱える。
これだから王都は。
税金は上がるのに。
紙はなくなる。
意味が分からない。
どういう優先順位なのだろう。
リリィは深くため息をついた。
杖を取り出す。
小さく呪文を唱える。
淡い光。
ぽん、と音がして紙が現れる。
「よし」
生活魔法だけは失敗しない。
不思議なくらい失敗しない。
国家を救うような大魔法は失敗するのに。
紙を出す魔法だけは完璧だった。
こういう、誰も傷つけず、少しだけ困りごとを減らす魔法だけは。
*
夕方。
リリィは本屋の窓際に座っていた。
紅茶は少し冷めている。
窓から春の日差しが差し込んでいる。
彼女は古い歴史書を読んでいた。
正確には歴史書ではない。
政治思想書だった。
最近流行っている。
若者向けの本だ。
国を変えよう。
腐敗を正そう。
民衆の力を取り戻そう。
そんな言葉が並んでいる。
リリィは数ページ読んで本を閉じた。
胸の奥が少しだけ重い。
どこかで読んだ。
何度も読んだ。
百年前にも。
二百年前にも。
五百年前にも。
言葉は違う。
旗も違う。
国も違う。
でも似ている。
あまりにも。
リリィは窓の外を見た。
広場に人が集まっていた。
若い男が演説している。
黒髪の青年だった。
真っ直ぐな目をしていた。
強い声だった。
「この国は変わらなきゃいけない!」
歓声が上がる。
拍手が響く。
若者たちの目は輝いていた。
希望だった。
未来だった。
正義だった。
リリィの指先が少し震えた。
その言葉を知っている。
何度も聞いた。
何度も。
何度も。
何度も。
*
深夜の大学。
冷たい石造りの廊下。
白い紙束。
震える手。
笑う仲間たち。
『沈黙するな』
『恐怖に従うな』
『人間であれ』
白い花のブローチ。
優しい友人。
雪。
処刑台。
血の匂い。
泣き声。
*
「――っ」
本が床に落ちた。
店内が静まる。
リリィは慌てて本を拾った。
「すみません」
頭を下げる。
誰も気にしていなかった。
でも胸だけが痛かった。
息が苦しい。
手が冷たい。
あの春の日も。
最初はこんな景色だった。
花が咲いていた。
笑い声があった。
希望があった。
そして。
たくさんの人が死んだ。
*
広場の青年はまだ演説していた。
「俺たちが変えるんだ!」
拍手。
歓声。
希望。
未来。
リリィは目を閉じた。
しばらくそうしていた。
それから。
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。
「やめておけばよかったのに」
それは青年に向けた言葉だったのか。
過去の自分に向けた言葉だったのか。
リリィにも分からなかった。
春の風が吹く。
花びらが舞う。
あまりにも綺麗な夕暮れだった。
だからこそ。
少しだけ嫌な予感がした。
まるで歴史が。
また動き出そうとしているみたいに。
*
花は毎年咲く。
人もまた、何度でも同じ過ちを繰り返す。
それでも、リリィは人を信じたい。
*


*
