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本を買うとき、情報と一緒に“文章”を買っている

本を買うとき、自分は情報だけを読みにいっているわけではない。


もちろん、知識は欲しい。

歴史。
社会。
心理。
創作。
働き方。

知りたいことはたくさんある。

でも実際に惹かれるかどうかは、“何が書いてあるか”だけじゃなく、“どう書かれているか”にかなり左右される。

つまり、自分は文章を買っている。

本屋へ行くと、まず少し読む。

冒頭。
目次。
途中の一ページ。

そこで、「あ、この人の脳内、ちょっと好きかもしれない」と思えるかを探している。

逆に、どれだけ興味あるテーマでも、文章が整いすぎていると急に距離を感じることがある。

最近の本は、かなり読みやすい。

結論が早い。
構成が綺麗。
要点が整理されている。
見出しもわかりやすい。

それ自体はすごいことだと思う。

編集も入っているし、読者が読みやすいようかなり調整されているのだろう。

でも、ときどき思う。

人間らしさ、削られすぎてないか、と。

作者の迷い。
熱量。
偏り。
寄り道。
言葉に詰まる感じ。

そういう“生っぽい部分”が、綺麗に整えられすぎている気がする。

もちろん商業出版だから当然でもある。

読者の顔色もある。編集方針もある。売れ筋もある。わかりやすさも必要だ。

でも、自分はたぶん、「正しく整理された文章」を求めているわけではない。

むしろ少し散らかっていてほしい。

途中で話が逸れてもいい。
妙な執着が見えてもいい。
熱量に偏りがあってもいい。

そういう文章のほうが、「この人が本当に考えてきたもの」に触れている感じがする。

だから本選びに時間がかかる。

欲しい情報はある。

でも、“欲しい文章”がなかなか見つからない。

結果として、本を買う。

そして積む。

部分的には「なるほど」と思う。学びもある。でも最後まで読み切れない。

なぜなら、自分が欲しかったのは“情報”だけではなかったからだ。

たぶん、本当に読みたいのは、“人間”なのだと思う。

知識そのものというより、その人がどんな温度で世界を見てきたのか。その偏り方とか、引っかかり方とか、妙に気にしている部分とか。

そこに惹かれている。

だから、大衆向けに整えられすぎた本を読むと、途中で少し寂しくなる。

綺麗なのに、呼吸がない。

もちろん、すべての本がそうではない。

ときどき、「この人、編集に削られながらもまだ滲み出てるな」という文章に出会う。

そういう本は、読むのが遅くなる。

情報収集ではなく、“会話”に近くなるからだ。

たぶん自分は、本を読むことで、誰かの脳内を少し歩きたいのだと思う。

綺麗に舗装された高速道路ではなく、少し散らかった生活道路みたいな文章。

迷いながら考えている痕跡が残っている文章。

だから今日も、本屋で長く立ち止まっている。

欲しい情報はたくさんある。

でも、それ以上に、“欲しい文章”がなかなか見つからない。

#すみのとの短編小説

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