『やさしい適正検査』

朝六時。
街のスピーカーから、いつもの音楽が流れる。

『本日も、健やかな一日をお過ごしください』

窓を開けると、向かいのマンションの壁面モニターに、白い動物のキャラクターが映っていた。

丸い耳。
やわらかい声。
子ども向けみたいな笑顔。

『感情の乱れは、あなたのせいではありません。
 適切な相談窓口へつながりましょう』

その下に、
「現在の待機時間:182日」
と表示されていた。

遥は、そっとカーテンを閉めた。

冷蔵庫には水しかない。

昨日、適正ランクがまた下がった。

理由は通知で送られてきた。

『協調性スコアの継続的低下が確認されました』

『笑顔反応率が基準を下回っています』

『公共空間での無言時間が長すぎます』

『社会参加意欲に課題があります』

全部、自動判定だった。

駅へ向かう途中、
改札前で足止めされている老人がいた。

「え……?」

困ったように端末を見つめている。

駅員はいない。

代わりに、白い案内ロボットが繰り返していた。

『安心のため、再認証をお願いします』

『安心のため、再認証をお願いします』

通勤客たちは、
誰も見なかった。

見ないようにしていた。

遥も、
その横を通り過ぎた。

そうしないと、
自分のスコアも下がるから。

会社では、
会話の回数まで記録される。

昼休み、
無言で食べていた同期が、
翌週にはいなくなっていた。

理由は知らない。

聞かない方がいい空気がある。

『最近、少し元気ないですね』

帰宅途中、
広告モニターが遥に話しかける。

『あなたにおすすめの感情ケアプランがあります』

『初月無料』

雨が降っていた。

駅前では、
学生たちが無音で踊っている。

配信アプリ用の撮影らしい。

みんな、
ちゃんと笑っていた。

笑顔は、
減点されない。

横断歩道の脇に、
小さな喫茶店があった。

古い看板。
認証端末なし。
評価モニターなし。

この辺では珍しい。

店の前には、
「スコア提示不要」
と手書きで書かれていた。

怪しい店。

本来なら、
近づかない方がいい。

でもその日は、
なぜか足が止まった。

扉を開ける。

鈴が鳴る。

「いらっしゃい」

老人がひとり、
カウンターの向こうで笑った。

その瞬間。

遥は、
自分の名前を呼ばれていないことに気づいた。

この社会では、
ずっと番号で呼ばれていた。

整理番号。
社員番号。
市民ID。
感情ログ。

全部、
数字だった。

「寒かったでしょう」

老人は、
ただそう言った。

それだけだった。

それだけなのに、
遥は少し泣きそうになった。

窓の外では、
今日も白いキャラクターが笑っている。

『あなたはひとりではありません』

その声が、
ガラス越しに、
少しだけ遠く聞こえた

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