中陰論を離れたグリーフケア
中陰論を離れたグリーフケア
AI文字起こし めんどくさい修正が必要 ちょっとずつ直していきます。
はい、こんにちは。久しぶりのひかる大学 です。
この本を出してから いろんな対談をやったり、いろんな人と話す中で改めて、え、葬式否定論や法事否定論をね、私は語っておきたいなと。ま 、書くのも大事やけど、書くのもめんどくさいね。
めんどくさいというちょっと おおざっぱすぎますが、えっとというのもね、あの 法事、例えば 、えっと、7日ごとに、え、中陰が49日あると言われててね、7日、7日 ごとに法事を行うと、ま、その最初の7日目の初七日と言うけどね、そのような 法事のあり方っていうのがね、え、広く世間に広がっていった。今だんだん廃たれてるけどね。
それとあの 初七日をね、葬式当日にここから初七日ですって一緒にやってしまったりするような ことも起こってるけど何重にもナンセンスやね。
それね。えっとね、このことを今なぜ ちょっともう1回問題にしたかと言うとね、グリーフケアという分野の、え、研究が盛んになってくるにつれて、え、親しい人を なくした人の心のケアね、この観点からあの、その7日ごとの、えっと、法事であるとか そういう時にもう1度、縁とゆかりのあった人々が集まって、法事する、このことが、えっと、優れたグリフ ケアの文化であるというような説を持ってくることによってこの習慣を日本の 優れた文化として、肯定しようというね、そういう論者っていういうのがね、 まあまあまああるということがあると思うんですよ。
ほれで私はね、グリーフケアと いうものが必要やということは認めます。 私自身は いらんかったけどね。
この本のラストに書いてあるけど、母が死んでから1ヶ月 ぐらいしてから、あの、完全に母親と私の、なんて言うかな、カルマがほどけていって、 母親のまだ、私が縛ってた母親の気配のようなものがね 、あの、母がニコっと笑って、 私が母の全てを許し、え、感謝してあなたの息子だったという 思いをしみじみと感じることによって母親がニコっと笑って無数の私自身の臨死体験のように無数のひかる蝶になって宇宙全体に拡散していったような 感じがしたと。
これ、自分で自分に起こりました。
僧侶関係ない ね。坊さんが来てね、あの、 意味わからんお経読んでもね。
いや、私はわかるからね、私が意味分かるように訳した本ありますよ。 あの、例えば私はちょっと責任持ってないやつは訳せないから自分が訳せる浄土真宗の法事でよく読むようなものをね、ものすごく簡単な現代語に訳しました。
ま、意味わかっても別にあの必要ないと私は思ってるけど意味わからんよりは分かってどっちにしろやんやったら分かった方がいいんちゃうっていう本ですけど。本当はそれ自体いらんと思ってるんやけど。
超簡単現語訳とか本質的な核心的な何を言うてんの かということについての今の日本語の分かりやすいもんがなかったらね、意味のわからんことわわわわって言うてるだけ でしょ。
それ、グリフケアになりますか?ほんまに?
グリフケアやったら法事じゃなくて全く 新しいものを考えたらいいんですよ。
そして必要としてる人も必要としてない人 もおるしね。
ま、心のケアっていうのはね 、ある意味微妙に、うーん 危ない分野やからね、どっちにしろ普通に生きてる時でも、心の専門家というものが、ケアをすること によって、えっと、回復していくとかね。それね、ま、どっち かというと僕はほっといて欲しいというか、ほっといた方が1番いいというか。
友人とかは大事やと思うけどね。 専門家じゃなくてね、友人とかは本当に大事やと 思うよ。
あー、身近な人をなくしたんやったら親族 が本当にコミュニケーションを取れるような親族であるかとかね。そういうことも 大事やと思うけど、大体普通に生きてる時から心の専門家って いうのは僕あんまり信じてないっていうか、余計なお世話と いうか逆効果というか。うん。
支配逆に支配関係に陥らす、あの、陥りがち。1回支配関係に落とし込むっていう側面(転移)もテクニックとしてあると 思うからね。
心の専門家全体を私はどっちかというと否定してるけど、グリーフケア についても同じです。本当に必要なのは 友人ですわ。グリフケアの専門家じゃなくて。
でも100歩譲ってその友人がいないとする。
そして自分自身でも自分の心を見つめても、なくなった個人に対する思いを自己整理していけないという時に、100歩譲っ てグリフケアというものがえあると。
そこまでは 認めうると思いますね。
今日び、ペットロスですらね。え、そういう ケアが必要な方がおられるのは事実だと思いますけどね。僕は別できるだけ専門家 じゃなくて友人の方がいいと思うけど。
それでもね、法事はいらんわ! 法事関係 ないわ!
そして7日×7の49日ということには根拠がない。49日というのは、人が 1 回死んでから次の子宮に入るまでの間に中陰という
プロセスがあるという説に基づいてんだね。
あ、このことは誰が誰がいつ作ったかと言うと代表的なのは倶舎論ですわ。
『倶舎論』 ヴァスバンドゥ、漢訳では天親とも世親とも訳 されるけど、ま、インド人の僧侶ですけど、この人が、ま、比較的若い時に書いたのが『倶舎論』 です。『倶舎論』の中にその中陰論がありますわ。
これ、でもね、この人ね、後にね、
ま、えっと、小乗仏教という方はあまり今ではしないんやけどね。え、浄土真宗の七高僧として、え、天親を取り上げる 時には、え、お兄ちゃんの無着の勧めにより、小乗仏教を棄てて、大乗仏教に、 転向したんやという言い方をするけどね。
この小乗仏教という言い方には問題があるかもしれんけど、 『倶舎論』は、そのなんて言うのかな、テラワーダ仏教ですらない。い。根本仏教ですらない。 この中陰論というあのこの輪廻を前提としたような論はね、仏説ですらない と私は思いますね。
え、ヒンドゥ教の影を背負ってはいるが、背負って、え、輪廻論を解いて、そこからの解脱を解くといえば、解脱という言葉は仏教用語の漢訳や けど、ま、ヒンズ教でも輪廻からのモクシャ、解放と言ってたわけやけどね、
この 魂が死後も残ってモクシャを目ざさなあかんというのは、ヒンズー教であって、仏教 とちゃうんよ。
このえっと『倶舎論』は仏教ですらないと僕は思って ます。
その天親がね、後には浄土論を書いてるわけですわ。往生論とも言うけど。 これはね、死んだ直後に、ま、彼ら、彼のその時、彼
らのっていうか、あ、浄土教の伝統のね、 え、当時の古来の言い方、古来の言い方、 ちょっと色々語弊があると思うけど言うと
ね、
死んだ直後に阿弥陀が迎えに来で、阿弥陀の来迎ですね。ほんで直接、浄土に行きますわ。中陰もクソもあれへん。輪廻もクソもあれへん。 浄土に行ってそこで修行をして悟りを開くという説き方をしますね。これ自体僕は「物語 や」と思ってるけどどっちにしろそこでは中陰ということについては一切触れない。
輪廻があって、次の受胎までの間に魂が49日の中陰というものを過ごすという荒唐無稽な説は、後の天親にはない。後のヴァスバンドゥにはない。
『浄土論』においては、『十三分間、死んで戻ってきました』にも
書いてるけど、浄土というのは 詰まるところただただ清浄なる世界、安さらぎと覚醒だけがある世界。そこに、その一句に収まるということを書いてる。
この点が非常に重要で、それは天親も『浄土論』で曇鸞も『浄土論註』で取り上げ、親鸞も『教行信証』で取り上げたと。
その話と、中陰にある魂に向かってをする廻向するために、お経とかさ、坊さん読んでるお経とかさ、話 が全然合わへんのや。矛盾してんねん。坊さんがお経の功徳を死んだ霊魂に廻向できるなどということ、そんな こと、少なくとも浄土真宗ではそんなことは説かないね。
ところが日本人にどうやって『倶舎論』のあの49日という考え方が人々の間に浸透する ようになったのか、うまいことやったなってちょっと信じられ んようなことやけどさ、あれ、僕はやっぱり江戸時代のね制度を キリシタン弾圧して檀家制度を強制していった時に『倶舎論』における中陰という考えや、49日の法事中における法事を 強制していく。この時にかなりの力が働いて人民、民間の中にえーそれをね受け入れる土壌が作られていってそれをそのまま現代 も引きずってるんやと思うけどね。
最近そっから脱出する人おるけどさ、思想 的に脱出してるわけじゃなくて、お金ないのにそんなわけのわからんものに 使う余裕ないわっていう人々が増えてきて、 で、お金ないのはいいことじゃないんや けど、ま、少なくとも現代の経済社会ではね。
お金がなくても成り立つ社会はもっと いいかもしれんけど、少なくことも現代の経済社会ではええことじゃないけど、お金もないのにそんなわけのわからんもの に使うわけにはいかんわと。
米が高い。先に米を買わなあかんのに なんでそんなわけのわからん49日とかとかあるかないかわからんのにみんなどこに 書いてあるかも知らんねんや。『倶舎論』でっち上げられたんですよと 。しかもその同じヴァスバンドゥ=天親が晩年には『浄土論』書いてるし、『倶舎論』には触れなく なったと。
直行するという、え、安らきと覚醒に直行 するという、えっと阿弥陀というのは、無限、限りない力という意味やけど、限り ない働きっていう意味やけどね。それによって直行するという論に変わってるから 晩年の天親にとってもう『倶舎論』は超克されたもの やと私は思ってますけどね。これ同じ人物やっていうのは矛盾やないかっていう見方 もあるけど、その人物自体が後に『浄土論』を
書いてんねんから『倶舎論』は捨てたらええねん という根拠にもなりますよね。別の人やったら別の人が別のことを論じだったって なるけど、彼自身の遍歴、あ、心の、うん、魂の、仏道の歩んでいく履歴の中で、え、『倶舎論』は乗り越えられ 『浄土論』に至ってるということが言えるわけで、無視したらいいね。『倶舎論』は。
えっと、『チベット の死者の書』も『倶舎論』の杜撰な改竄であ
るって、ツルティム・ケサン、白館戒雲、 大谷大学の教授の後に名誉教授かな。 あ、彼が書きましたね。それは実は川崎信定という人の『チベットの死者の書』の方が優れた翻訳 であるという書評の中で触れてるんです。
えっと、 イーバンス・ベンツか、あの人があのニンマ派のテルマと呼ばれる埋蔵経典が、適切な時期が訪れたら埋蔵されてるのが 掘り出されて発見されて真実後語る時が来たみたいになっちゃった。ニンマ派の怪しげ なチベット仏教ね。主流派ではない。それを元にあの『チベットの死者の書』という部分だけを 訳したとはしてるけど彼はチベットで語できないからえっと非常にいい加減な「訳」でね。
ま多分神智学協会。インドに西洋人が作って、うん なんかいろんな東洋の知恵を広めるつもり やった神智学協会からの影響を受けたえ自分勝手な、ま、今でいうあの自分勝手な スピリチュアルと似てるわ。
そういうものを 混ぜ込んで作られたのが、えっと、
その経典訳であり、そのごく一部におい て中陰っていう言い方してるかな。同じことやけど、え、中陰に魂がおる時に勤行 することで、解放しようとする試み。人が僧侶がね、何らかの働きかけをそういう存在に対して行って、それを廻向する、 その功徳をそこに振り向けることによって解放するというね、考え方はね、仏教では ないですわ。実はそんなものは仏教ではない。生きてる時に 、基本的に生きてる時に修行して悟りを開いて、生死を超えた解脱の世界に目覚める、覚醒する。これが基本の仏教や。
それを基本に置いた上で、それをやろうとして修行しても修行しても 修行しても自分で自分を済度することが、えっと済度ってあの救済の済に、度ってあの渡るという現代の漢字からサンズイを抜いたらええねんけど同じですよ。渡る という意味ですよ。えっと、彼岸に渡る。生死の彼方に渡るということやけど、自分で 自分を済度することはできないと思い知った時に、それほど私は業が深いと思いった 時に、ふっと、 全てを放擲することによって、放擲て分かるか? 放下と言っ てもいい、とにかく解き放つ自分を。
まあ、禅で言うたら道元の言った心身脱落。えっと、それによって、えっと、阿弥陀って呼んでるけど、それ元の意味に戻し たら限りなき働き。この全宇宙に働いてる限りなき働きという意味であって人格神的 なもんじゃないね。この限りなき働きと不二になって、不っていうのは不思議の不に二つと書く。一つと言わずに不二っていうの分け隔てられていないという意味ね。その不二なる境涯に解放される。
それによってこのような経験を生前にしてることによって、臨終の際には、生死の彼方に解放される。
この自分の修行によって悟りを開くと いうのともうひとつ、修行しても修行しても無理やなと。そのように本当に分かった人が、自分自身を放擲、解き放った時に起こる解放。
無理やっていうことで解き放つという行為 を「する」んじゃなくて無理やと思い知ることによって自然に落ちるんです。自分の努力 というものはね、それによって解放される。この二種類。 この二種類は、えー、仏教です。
仏教というか本当は仏道と言った方がいいね。 仏教の教という字をやたらと使うようになったのは明治以降やと思うよ。少なく とも近世以降やね。キリスト教が訳されるようになってレジジョンを宗教と訳した。 この教という字を他の伝統にも当てはめていって、仏法や仏道にも当てはめて仏教と 言い始めて、イスラムにも当てはめて、イスラム教と言い始めた。なんでそんな キリスト教の影響を日本語が受けなあかん ねんと思うけど。
まあ、その、えっと、今言うた二つね、ま、自力の仏道と力の仏道と言言われる けど、その二つとも仏道と認めてもいいし、仏法に目覚める道と認めてもいい。
私自身はね、自力の仏道と呼ばれてるもの、本当は 釈迦6年間の苦行の末、菩提樹の下でリラックスしてただ自分を 見つめるという、瞑想=ヴィパサナをしてたとも言われるけどね。え、それをしてた 時に、今までの苦業の全てを何て言うかな。 うん。ここでもやはりあの、その努力によって成り立つんじゃなくて、ただただ 真実に目覚めるというある意味では他力、中とって自然(じねん)やと私は思っんねんね。自力の修行を極めていったんやけど最後に起こったことは、当時のインドのいろんな修行、苦行もしてたかもしれんけど、
疲れ切って力尽きたときに、供された 布施されたスジャータを素直に飲んで、菩提樹の下でリラックスして本当のなんて いうかくつろいだ。どっかに向かって悟りを開くという ことに向かって努力に努力を重ねていこうというやり方から、だただ リラックスして自分自身を見つめるという 瞑想に切り替えて見つめている時にその見つめて いる自分そのものという覚醒に目覚めれればね、た他力も自力もクソもないね。ま、 究極的にはこれあの同じことです。
あの自分で自分を済度する ことが不可能だと思い知った時に我知らず、その覚醒と不二になっているというのと、
釈迦が菩提樹の下でヴィパサナしてる時に、見つめている気づきそのものだけになった。
同じことです。
マインドフル瞑想っていうのが流行って、なんか あれもちょっと流行りの中で原点を忘れて指導してる人もおるけど、まあちゃんと した核心に戻れば、
サティ気づきだけになる。これ同じこと です。それその二つは仏道と認めてもいい。
?認めてもいいというか仏道てさ、私が認めるもんじゃないんだけど。仏道です!
ほんでさ、中陰論、これ死んでから死後の中陰のいる霊魂にお経を唱えることで済度しようというんやね。これは仏道か?
生前の 修行や修行の無効性への目覚めによって済度されるんじゃなくてあるいは限りなきはたらきに貫かれるんじゃなくてどっちでも同じと 私は思ってるけど
あの死んでからの魂に向かっ坊さんが祈ることに よって解放が起こるというのは これは仏道ではない!
そんなことを釈迦は言うてない。捏造された 。捏造された『倶舎論』をさらに杜撰に改ざんして『チベットの死者の書』のイーバンス・ベンツが訳した部分は作られてる。
こういうのをね、 ニューエイジスピリチュアルブームの中で、NHKスペシャルの チベットの死者の書で取り上げた。それには問題ある。
確か白館戒雲は、川崎信定の翻訳がいい っていう、あのまだまともやまだ訳としてはまともやということ言いたくて書評を書いたんやね。あの イーバンスベンツの流行らせた『チベットの死者の書』の方は批判するような論文を大谷大学仏教学セミナーの51号に書いた。
うちのどっかに探したらあんねんけどな 。見つけるの時間かかるから大谷大学行った方が早い かも。
それはね仏道ではないです。
中陰なんかありませんし釈迦も認めてません。あの ヒンドゥ的な輪廻ね。それも認めてません。幻想だと見破った。
心の状態としての六道と呼ばれるような うん。天・阿修羅・人・畜生・餓鬼・地獄のようなね、心の状態を経巡るという意味では、うん、隠喩してね、成り立ってると思うけども生まれ変わり なんていうものを、これは仏道では説いていません。ヒンドゥ教です。 僕はないと思ってる。それをね、あると言った方が、グリフケアになるとか言う人もいるが。
グリフケアになったら嘘ついてもいいんか。死ん だ親族にまた会えるよとかべね死んだワンちゃんにまた会えるよとかさ、その魂にね、会えると。
ま、グリフケアになるんやったら 言うてもいいけどね。 言うた方が、その場は心の慰めになるんやったら、ま、言うてあげる人も おってもいいけどさ。
本当はさ、江戸時代にさ、キリシタン弾圧して、え、様々な 法事を全て行う。
1回檀家に、檀家や門徒に登録するだけじゃなくて、宗門改め帳で見たら、ここの段階やなって分かるようにするだけじゃなくて、全ての法事を滞りなく 行っていて初めて仏教徒でありえるようにして支配した。全部法事してやっと、クリスチャンではないと 認められる。そうでなければ疑いをかけられる。キリシタンであるかもと。この激しい弾圧が江戸時体にあって檀家制度というものが広まりほとんど全ての 日本人が、そこに組み込まれた。ま、サンカとかアイヌとかは別やな。彼らへのリスペクトは僕は持ってるけどね。
えっと、ほとんど全てのまあ、うん、天皇制の軍門に下ってる日本人という かな。当時は幕府の軍門に下ってる日本人。これがまあどっかの寺に所属する段階ということ になった。強制的ですよ。これ。信教の自由もクソもないからね。この時代 強制的にそうなった。それを引きずってるのが現代の法事やから 全部やめた方がいいです。で、グリーフケアは新たに考えましょう。新たに本当に 傷ついてる人で友人も自分の力でも立ち直れない人。友人もおらんかまたは友人の力でも立ち直れない人のグリフケアを考えたいというんだったら1 回仏教のそういう49日論という欺瞞、これをぶった切ってから新たに考えましょう。
新たに考える時も僕は専門家らんと思う。けど 友人おらへんかもしれんからね。これここ が問題だ。それやったらグリフケアを
どうしたらいいかを一生懸命言及してる人 が出てきたらいいけど
これ新たに考えたらいいと思う。 嘘の上に成り立てたらどっちにしろさ、いつか崩れる。 後は、経済的にも困ってるから、困ってる人が多いからね。それは 経済的に解決していかなか問題やけど、坊さんに高いお布施、あの、意味わから んお経に、いや、僕は意味わかるけど、多くが分からんの 聞かされて、高い布施払ってる場合じゃないから。
ちゃんとしたグリーフケアをやってくれる 人にお礼したらいい。それ格安でやるか、国が 援助しなかんかなぜか福祉と考えなあかんね。
宗教じゃなくてほんまに必要な人がいたらね、その人に福祉政策が必要です。精神を病んでる人に福政策が必要やというのと同じ カテゴリーで。別に病気ではないかもしれんけど 大切な人を失った時の落ち込みていうのはねえ、別に病気ではないかもしれんけど福祉としてのグリフケアを考えていかなあかんので あって中陰論という虚構の上に立ってはいけないと思います。
れが 今日言いたかったことなので、題名は、えー、『中論を離れたグリフケア』という題名にしとこうか。ちょっと今日はいつも以上に長くなってしまった。この問題はこれから文字にも 書き起こしていかなかんね。とりあえず今日ここまで、まったねえ。
いいなと思ったら応援しよう!
もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。