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『エミリア・ペレス』/なぜ、唄うのか(映画感想文)

ミュージカルはなぜこうも受け入れられないのか。
『ジョーカー/フォリ・ア・ドゥ』(24)はアメリカでも賛否だったということなので特別日本人だけが…とは思わないけれど、いややはり日本人の多くはミュージカルに対して生理的といってもいい程の嫌悪を感じている気がする。もしかすると苦手なのかも知れないし、食わず嫌いということも考えられる。日本には歌舞伎や能といった伝統芸能もあるが。ミュージカルを上手に受け入れるには能力が必要で、それが欠けているのかも知れない

「これは小説ではなくマンガにするべき」とか「このメロディならロック調にせずバラードにするべし」とかいう批判はあまり聞かない。
サザンオールスターズのデビュー曲である「勝手にシンドバット」(78)はもともとはミディアムテンポの曲だったのをサンバのアレンジしたらハネた、とか、ある作家が筋書きを思い付いたが現代劇では無理がある、そうだ時代劇にすれば描きたいテーマがより活きる、と思い時代小説にしたら上手くいった、といったバックステージの挿話を耳にすることはあっても、批判としてはほぼ聞いたことがない。
なのにミュージカルというフォーマットにだけは「別にミュージカルにしなくてもよかったのでは…」という声が必ずといっていいほど出る。なぜなのか。それまで普通に話していた人物たちが周囲を気にせず突然唄い出すことへの違和感は、まあ僕も理解できる。
だが、反対になぜこうは考えないのか。
なぜ作り手はこの作品をミュージカルにしたいと思ったのか」と。
そこには何かしらの必然がある筈だ。そこを理解したうえで「それでもやっぱりこれは唄わなくてもよかったんじゃね?」という感想なら判る。ただこの点を考えるとなると、普通の物語で行われる会話の効果と唄うことにより得られるもの・表現できるものとがある、といった違いについて考えねばなるまい。

大体が人物が唄って伝えるのはその時々の心情だが、人物の気持ちを伝える方法はメディアによりさまざまだ。
小説であればまず作家が三人称にするのか・一人称で書くのか、の検討を行う。物語を誰の視点で見るのか、複数の視点で見る必要があるのか・作家は人物たちをどう扱うのか(一例を挙げれば主人公を批判的に書くとか、事件のなかでどうしようもない目に遭わせるとかなら三人称、とか。一概にどうだとはいえない)といったことを考えるが、三人称であっても「おれ」の主観的な文章を(三人称のなかへ一人称の文を)挿入することは可能。そうすることで強い思いを打ち出したり、スピード感を出したりする(僕の場合は)。
マンガであればスピーチバルーンなしのモノローグを上手く使うことで、主人公とそれ以外の人物の錯綜する気持ちという、通常であれば同時に理解することが不可能な心情を絶妙のタイミングや分量で読者に伝えることも出来る。
ただ映像もだけれど、伝える方法があるからといって全部伝えていいわけではけっしてなく、あえて書かない・伝えないことで、より読者や観客がドキドキしたりカタルシスを得たりする取捨選択や割愛の作業を行うのが作家の個性であり、腕だ。
「歌にして唄う」ことを選んだのも、どうすれば心情が効果的に伝わるかを検討した挙句に選択された方法である筈

たとえば、その人物自体がどうしても主張したいけれどもその場ではいえないこととか、考えること自体が許されないと判っていながらどうしてもその想いを捨てきれないとか。
はっきりと科白や概念の言葉として表現すると、その思考が(確かなもの)として受け取られてしまう惧れがある。迷いや逡巡やためらいを表現したい…、場合はもしかすれば唄うことで上手く共感が呼べるかもしれない(そうか、そんなに迷っているのか! とか)。
『フォリ・ア・ドゥ』のように欺瞞と本心をメタレベルで区分するのに使った特異な例もあるが(小説で地の文のなかにゴシック体と明朝体を紛れ込ませるようなものか)多くは真っすぐで情熱的な悩みや他人にいえない告白や社会的に許されないことへの逡巡で効果があるのだと思う。

『エミリア・ペレス』(25)の舞台はメキシコ。
主人公は、敏腕だが黒人ゆえに独立できず、無能な白人弁護士事務所で助手仕事に甘んじるしかない女性弁護士リタ。その彼女のもとへ匿名の電話が掛かってくる。訝しみながら会うことになった相手は麻薬カルテルのボス・マニタス。そのマニタスからリタはある仕事を依頼される。
「自分は女になりたい。性別適合手術を受けて自分が望んだ本当の人生を始める、その手伝いを極秘でしてほしい」
犯罪や敵対するカルテルから逃れ身を隠すためではなく、狂暴そうな見た目に鍛えられた巨漢の体躯を持つマニタスだが心は女性で、ずっと女性として生きたいと思っていたのだ。
筋書きだけを抽出するとミュージカルに落とし込むよりリアルでダークなサスペンスに仕立て上げた方が…もとい、仕立て上げることも出来るという気もするが、個々の人びとの複雑な想いが物語を推進する強い力となっているので、いざ物語が展開し始めるとそれほど気にはならない(冒頭、リタの状況を説明する場面はやや、…「は?」と鼻白んだが。あと医師を探す場面で唄っているところとか、…)。

ミュージカルであることの是非はさておき、この映画、おもしろい。
一部では、メキシコ文化への理解が誤っていると批判されたり、トランスジェンダーの認識に誤解があるといわれたり、はてはカルテルのボスから女性へ転換する役を演じたソフィア・ガスコンのSNSでの騒動(差別的で攻撃的な発言をしていたそうだ)もあったりで、アカデミー賞にノミネートされながらスキャンダラスな話題にも事欠かないが、そんな外側の騒ぎはさておき、映画としてはなによりキャラクターが立っている。誰もかれもがパワフルで巻き込まれるように物語に引っ張り込まれる(…突然唄い出したときに「は?」とならないかぎり)。

メキシコという世界に説得力がある。
麻薬カルテルのボスが女性に転換する、そんな莫迦な…と思っても「そうしなければ生き抜くことが出来なかった」とマニタスにいわれれば、そうかも、と納得してしまう。
「なるほど。ではクライマックスではその秘密がバレそうになって窮地に追い込まれるんだな」と知った顔で先読みしても、そうはならない。女性になったマニタス(の名がエミリア・ペレスである)がそのあとで行うこともメキシコ的で、このくだりは大変社会派だ。
もちろん、すべてマニタスの自分勝手な欲求が引き起こしたことやんけ、とツッコミを入れることも出来るが、先進国でLGBTがー、多様性がー、といっている人びとに対し、痛烈で力のあるひとつの異議申し立てになっている点は興味深い。お行儀のいい御為ごかしのやり方なんかでは通用しない国があることに気付かされる。展開がいちいち斜め上だが、それは文化が違うからだ。
メキシコ文化への理解が誤っている、という批判がどこを指しているのかは判らないが、先進国の尺度では測れないほど貧しく、しかし生きることに精一杯の人たちが世界には多くいることをわれわれは知ることが出来る。

個人の感想だが、この映画、いわゆる転生モノのリアルなヴァージョンだと思う。本人が願って転生しているのだが。
自分は男だった。だが女として新たな顔を得た。生きている世界は以前の世界と地続きだが、別の自分となったときにに何が変わるか・どう出来るか、という物語でもある。そう思うとファンタジーだ。殺伐とした格差社会のなかで、現代なら起こりそうな出来事から少しだけ飛躍して「あるかも」の物語を強い力で進めようとすれば、リアルにこだわり過ぎない方がいい。説明を省くとメキシコ(でなくてもよく、貧困格差があり、理不尽な暴力が身近にある世界)の暗部が嘘くさくなり、説明し過ぎるとダイナミズムが死ぬ。「そんなことないわー」とやはり嘘くさくなる。ミュージカルという形式に落とし込むことで、リアルのバランスが保たれた、という見方も出来る。
ちょっと藤子・F・不二雄的、…とも思ったが、まあそんな感想を持つのは僕ぐらいだろう。

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