チ。原作16話を神学してみた。「猫」は存在しない?――中世最大の「普遍論争」とは?
『チ。―地球の運動について―』原作16話、アニメ8話までのネタバレを含みます。
また、原作の話数に合わせて神学(考察)していきますので、以下の過去作をまだご覧になっていない方はご覧ください。
哲学史用語の羅列
『チ。―地球の運動について―』原作第16話では、バデーニとヨレンタが、天文学について話し始めます。
ところが、この二人の会話、いきなり難しい。
フィロラオス。
普遍論争。
唯名論。
アベラール。
オッカム。
何の説明もなく、大学の哲学史の試験に出てきそうな単語が、次々と飛び出してきます。
オクジーでなくても、「ちょっと待って。何の話をしているんですか?」と言いたくなります。
しかし、実はここが面白いのです。
ヨレンタがバデーニに「普遍論争では、どちらの立場ですか」と尋ね、バデーニが唯名論、中でもアベラールを支持すると答える。するとヨレンタも目を輝かせ、自分の主人はオッカムを支持していると語ります。
この会話は、現代でいえば、初対面の相手に「あなたは量子力学のコペンハーゲン解釈を支持しますか。それとも多世界解釈ですか」と尋ねるようなものです。
いや、普通は聞きません。
しかし二人には通じる。つまりこの場面は、ヨレンタが初めて、自分と同じ知的言語を話せる人に出会った場面でもあるのです。
では、本物のキリスト教の牧師である私が、この意味不明、もとい、知的刺激に満ちた会話を神学してみたいと思います。
そもそも「普遍論争」とは何か
まず、「普遍」とは何でしょうか。
目の前に、三匹の猫がいるとします。
白猫、黒猫、三毛猫。大きさも性格も違います。一匹は人懐っこく、もう一匹は人を見ると逃げ、残る一匹は深夜に飼い主を踏んで起こします。
三匹とも、まったく同じではありません。
それでも私たちは、三匹を見て「猫」と呼びます。
では、この三匹に共通する「猫らしさ」は、いったいどこにあるのでしょうか。
一匹一匹の猫とは別に、「猫そのもの」「猫という本質」がどこかに存在しているのでしょうか。それとも、実際に存在するのは個々の猫だけで、「猫」という言葉は人間が便宜的につけた名前にすぎないのでしょうか。
これが、ものすごく簡単にいえば「普遍論争」です。
「猫」だけではありません。
「人間」「正義」「善」「美」「教会」「国家」といった一般的な概念についても、同じ問題が起こります。
目の前にいる田中さんや鈴木さんは実在します。では、個々の人間とは別に「人間性」というものが実在するのでしょうか。
こんなことを大真面目に議論していたのが、中世の哲学者、そして神学者たちでした。
「暇やったんやな」と思うかもしれません。
ところが、彼らは暇つぶしをしていたわけではありません。これは、私たちが言葉によって世界を理解できるのはなぜかという、かなり根本的な問題なのです。
実在論と唯名論
普遍論争には、非常に大まかにいえば「実在論」と「唯名論」という二つの立場があります。
実在論は、「人間」「善」「猫」といった普遍的なものには、何らかの実在性があると考えます。
ただし、「空の上に巨大な猫の原型が浮かんでいる」という意味ではありません。
プラトンのように、個々のものを超えたイデアが存在すると考える強い実在論もあれば、アリストテレスや後のトマス・アクィナスのように、普遍的な本質は個々の事物の中に存在し、それを人間の知性が認識すると考える立場もあります。
一方、唯名論は、現実に存在するのは、あくまで一匹一匹の猫、一人一人の人間だと考えます。「猫」や「人間」という普遍は、個々のものをまとめて呼ぶための名称や概念だというわけです。
ただし、「唯名論=言葉なんて全部でたらめ」という意味ではありません。
三匹の猫には、確かに共通点があります。だから「猫」という言葉は役に立つ。しかし、「猫らしさ」という独立した何かが、個々の猫とは別に実在しているとまで考える必要はない。これが唯名論の基本的な方向性です。
なぜ哲学ではなく「神学」の問題なのか
ここまでなら、言葉の意味をめぐる哲学の問題に見えます。
しかし、中世ヨーロッパでは、哲学と神学はきれいに分かれていませんでした。しかも普遍論争は、キリスト教の中心教理にも関係します。
たとえば、三位一体です。
キリスト教は、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つの位格を告白します。しかし、神が三人いるとは教えません。神は唯一です。
「三つの位格であり、一つの神である」
では、父と子と聖霊に共通する「神性」とは何でしょうか。
もし普遍が単なる名前にすぎず、存在するのは個々のものだけだと極端に考えるなら、父、子、聖霊は、三人の別々の神になってしまわないでしょうか。
反対に、共通する神性だけを強調しすぎれば、父、子、聖霊の区別が消えてしまいます。
もちろん、普遍論争の立場だけで、三位一体についての正統・異端が自動的に決まるわけではありません。しかし、「一つの本質と三つの位格」をどう説明するかという問題に、普遍についての考え方が影響したことは確かです。
ほかにも、「人間には共通する本性があるのか」「アダムの罪と全人類はどう関係するのか」「キリストは神性と人性をどのように持つのか」といった神学上の問題にも関わってきます。
たかが「猫」という言葉の話ではなかったのです。
バデーニが支持したアベラール
バデーニが支持すると語ったアベラールは、11世紀末から12世紀前半に活躍したフランスの哲学者・神学者です。
恋人エロイーズとの悲劇的な恋愛でも有名ですが、論理学者としても当時屈指の人物でした。
アベラールは、極端な実在論を批判しました。
複数の人間の中に、まったく同じ一つの「人間性」という物体のようなものが入っている、と考えるのはおかしい。それでは、一つのものが同時に何人もの中に丸ごと存在することになってしまいます。
その一方で、「普遍はただの音にすぎない」と切り捨てたわけでもありません。
「人間」という言葉は、田中さんや鈴木さんなど、複数の個人について意味をもって用いることができます。普遍性は、世界のどこかに存在する不思議な物体ではなく、言葉や概念が複数のものを指し示す働きの中にある。
そのためアベラールの立場は、単純な唯名論というより、概念論に近いと説明されることもあります。
バデーニがアベラールを支持するという設定は、なかなか興味深いものです。
バデーニは、昔からの権威をそのまま受け入れる人ではありません。しかし同時に、何もかも破壊すればよいという人でもない。極端な実在論を疑いながら、言葉や論理には意味があると考えたアベラールは、いかにもバデーニ好みです。
このあたりに、魚豊先生の考証の深さを感じます。
ヨレンタが支持したオッカム
それに対して、ヨレンタは、自分の主人がオッカムを支持していると語ります。
言わずもがな、ほとんどヨレンタ自身の意見でしょう。
オッカムのウィリアムは、13世紀末から14世紀に生きたイングランドのフランシスコ会修道士、哲学者、神学者です。
オッカムは、普遍的な実体を認める必要はないと、アベラール以上に徹底して考えました。
実際に存在するのは、この猫と、あの猫です。「猫」という普遍的概念はありますが、それは多くの個体に当てはめられる心の中の概念であって、個々の猫とは別に「猫そのもの」が実在するわけではありません。
そこで有名なのが「オッカムの剃刀」です。
一般には、「必要以上に存在を増やしてはならない」という原則として知られています。
ただし、オッカム本人が、現在有名になっているそのままの言葉を残したわけではありません。また、「いちばん単純な説明は必ず正しい」という魔法の法則でもありません。
たとえば、礼拝中にマイクの音が出なくなったとします。
原因として、「悪霊が音響設備を妨害した」と考える前に、まず電源やケーブルを確認した方がよい。
これがオッカムの剃刀です。
いや、悪霊が絶対にいないという話ではありません。説明するために必要のないものまで、最初から持ち出さなくてよいということです。
原因を三つ仮定しなければ説明できない説と、一つの原因で同じように説明できる説があるなら、まず一つで済む方を検討する。この余分な仮定を切り落とす比喩から、「剃刀」と呼ばれます。
バデーニは、そんなオッカムを「少々過激」と評します。
それに対してヨレンタは、真理を探究するためには大胆さが必要だと応じます。
この短いやり取りだけで、二人の性格の違いまで見えてきます。
バデーニは大胆ですが、論理的に慎重です。ヨレンタは普段こそ抑圧されていますが、知の世界では、案外バデーニ以上に過激なのです。
オッカムの剃刀で「神」も切られるのか
現代では、オッカムの剃刀が無神論を擁護するために使われることがあります。
「自然現象は自然法則だけで説明できる。それなら神を持ち出す必要はない」というわけです。
しかし、ここは少し注意が必要です。
オッカム自身は、無神論者ではありません。フランシスコ会の修道士であり、神学者でした。彼にとって、理性や経験だけでなく、聖書もまた、何かの存在を認める根拠になり得ました。
ですから、オッカムの剃刀は「目に見えないものは全部存在しない」という思想ではありません。
むしろ、「自分が説明しやすいから」という理由だけで、聖書にも経験にも論理にも必要とされない存在を勝手に増やすな、という戒めです。
これは神学にも必要な態度だと思います。
聖書が語っていない細かい仕組みまで、「神様はきっとこうなさったに違いない」と説明し、それを信仰そのものにしてしまう。教会はしばしば、そういうことをやらかします。
私はプロテスタントの牧師ですから、聖書に書かれていることと、人間が後から作った説明とは、なるべく区別したいと思っています。
その意味では、オッカムの剃刀は、神を切り捨てる道具ではなく、人間が神について勝手に付け加えた余計な説明を切り落とす道具にもなります。
地球を中心から追い出したフィロラオス
もう一人、第16話で登場するのがフィロラオスです。
フィロラオスは、紀元前5世紀ごろのピュタゴラス派の哲学者です。
彼の宇宙論では、宇宙の中心にあるのは地球ではありません。「中央火」と呼ばれる火が中心にあり、地球も太陽も、その周囲を回っていると考えました。
つまり、フィロラオスは地球を宇宙の中心から追い出したのです。
ただし、これは現代的な地動説でも、コペルニクスの太陽中心説でもありません。太陽も中央火の周囲を回りますし、地球からは見えない「反地球」という天体まで想定されていました。
かなり、ぶっ飛んでいます。
しかし、「地球は動かない宇宙の中心である」という常識を疑った点では、非常に重要です。
科学の歴史は、初めから正解を言い当てた天才だけで作られたのではありません。最終的には間違っていた仮説も、「本当に地球は動かないのか」と考えるための足場になりました。
キリスト教神学も同じです。
一度も間違えずに、最初から完全な教理にたどり着いたわけではありません。さまざまな説が提案され、議論され、ときには退けられながら、何を信じ、どのような言葉で表現するのかが練り上げられてきました。
だから、間違った仮説を考えること自体が罪なのではありません。
考えることを禁じる方が、よほど危険なのです。
たった数ページに詰め込まれた知の歴史
フィロラオスは、地球を宇宙の中心から外しました。
アベラールは、普遍を独立した実体として考えることに疑問を投げかけました。
オッカムは、説明に必要のない存在を、剃刀で切り落とそうとしました。
扱っている問題は、それぞれ違います。
しかし三人には、共通するところがあります。
「これまで当然だと思われてきたものは、本当に必要なのか」と問い直したことです。
ヨレンタとバデーニが意気投合したのも、おそらくそこでしょう。
二人とも、権威が言ったから正しいとは考えない。かといって、何でも否定すればよいとも思っていない。世界をできるだけ筋道立てて、余計なものを加えずに理解しようとしています。
それは、そのまま地動説の探究へとつながっていきます。
第16話は、派手な天体観測の場面ではありません。しかし、普遍論争についての短い会話だけで、バデーニとヨレンタの知性、立場、性格、そして二人がなぜ地動説に引かれるのかまで描いています。
このマンガ、凄くないですか?
読者の多くが意味を知らないであろう「アベラール」と「オッカム」という名前を、ほとんど説明せずに会話へ放り込む。そして、調べてみると、その人選がちゃんと登場人物の性格と結びついている。
魚豊先生、かなり調べています。
『チ。』をきっかけに、地動説だけでなく、中世の哲学やキリスト教神学にも少し興味を持っていただけたら嬉しいです。
そして皆さんは、「猫」という普遍が本当に存在すると思いますか。
それとも、存在するのは、夜中に飼い主を踏みつける一匹一匹の猫だけでしょうか。
最後に
今後も「チ。地球の運動について」をはじめ、マンガ、アニメやゲーム、サブカルをテーマにして本物の牧師がいろいろ神学(考察)していこうと思います。感想、コメント、「スキ(いいね)」、フォローくださると励みになります。また、神学(考察)してほしい、アニメやゲームがありましたら、コメントください。
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