『ラスト・オブ・アス Part II』シアトル1日目のシナゴーグを神学してみた②
リンゴと蜂蜜って、バーモントカレー?
「リンゴと蜂蜜」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。私は、ユダヤ教の祭りより先にカレーを思い浮かべます。
リンゴと蜂蜜、とろーりとけてる――いや、バーモントカレーか。
ところが、『ラスト・オブ・アス Part II』のシアトル1日目に出てくるリンゴと蜂蜜は、カレーの隠し味ではありません。ディーナが幼いころ、ユダヤ新年に家族と味わった思い出です。
前回は、廃墟となったシナゴーグに残された「5774年」のカレンダーと、トーラーの巻物について書きました。今回は、そのカレンダーを見たディーナが語り始める、リンゴと蜂蜜の話です。
本編には関係のない小さな会話に見えます。けれども、ここには「信仰は、どうすれば次の世代に残るのか」という、日本の教会にとって笑って済ませられない問いが隠れています。
リンゴと蜂蜜は、律法の食物規定なのか
ラビの部屋でユダヤ暦を見たディーナは、姉のタリアが新年になると、リンゴを蜂蜜に浸して食べさせてくれた思い出を語ります。
旧約聖書には食物規定があります。ですから私は最初、「これもモーセ五書に書かれているのだろうか」と思いました。
ところが、調べてみると違いました。
レビ記23章は、第7の月の1日に角笛を吹き、聖なる集会を開くよう命じています。後のユダヤ教では、この日がロシュ・ハシャナ、ユダヤ新年として祝われるようになりました。
しかし聖書には、「新年にはリンゴを蜂蜜につけて食べなさい」とは書かれていません。これは後代に育ったユダヤ教の慣習です。甘い蜂蜜を味わいながら、これから始まる一年が「良い、甘い年」になるように願うのです。
聖書では、約束の地が何度も「乳と蜜の流れる地」と表現されます。蜂蜜は豊かさや祝福を連想させます。ただし、そこでいう「蜜」はナツメヤシなどの甘いシロップを指す場合もあります。
ですから、「モーセ五書にバーモントカレーのレシピが書いてあった」という話ではありません。リンゴと蜂蜜を新年に食べるのは、トーラーが直接命じた食物規定ではないのです。
しかし、ここで「なんや、聖書に書いてないんか」で終わってはいけません。
むしろ、ここからが面白いところです。
聖書の言葉が、食卓の味になる
律法に直接書いていないから、意味がないのではありません。リンゴと蜂蜜は、聖書を受け継いだユダヤ人たちが、信仰を暮らしの中で生きるために育ててきた文化です。
聖書の言葉が祭りになり、祭りが食卓になり、食卓の味が家族の記憶になる。
これって、かなり大切なことではないでしょうか。
ディーナが思い出すのは、難しい教理の文章ではありません。姉が差し出してくれた、蜂蜜のついたリンゴの味です。
甘い一年を願って食べたはずなのに、彼女の人生は決して甘くありませんでした。感染爆発が起こり、家族を失い、暴力の世界を生きることになります。それでも、あの甘さの記憶は消えません。
ディーナは、トーラーを何もかも信じている人物ではありません。それでも祈りは自分を落ち着かせ、悲しみを受け止め、広い視野で見る助けになると語ります。そして自分が長い「生存者の系譜」に連なることを大切にします。
彼女の家族は、異端審問、ホロコースト、そして感染爆発後の世界を生き延びました。彼女にとってユダヤ人であることは、プロフィール欄の宗教名ではありません。滅ぼされそうになっても祈り、物語を語り、記憶を渡してきた家族の歴史なのです。
だから、シナゴーグに残された品々は、ばらばらの宗教知識ではありません。カレンダーは共同体の記憶、トーラーは受け継がれた言葉、リンゴと蜂蜜は、その言葉が暮らしの中で「味」になったものです。
そしてディーナ自身が、それらを次へ運ぶ生きた器です。世界が終わってもユダヤ暦は、シナゴーグを離れてもトーラーの物語は、姉がいなくなってもリンゴと蜂蜜の甘さは彼女の中に残っています。宗教施設が廃墟になっても、信仰の記憶まで廃墟になるとは限らないのです。
信仰継承には、文化の継承という面がある
では、キリスト教会はどうでしょうか。
私たちは子どもたちに、聖書の知識を教えようとします。それはもちろん大切です。しかし、正しい答えを覚えさせるだけで、信仰を手渡したつもりになってはいないでしょうか。
2008年に公表されたPew Forumの米国宗教景観調査では、子ども時代の宗教伝統を成人後も名乗る割合は、正教会73%、カトリック68%でした。プロテスタント諸教派では、バプテスト60%、ルーテル59%、メソジストとペンテコステ47%、聖公会45%、長老派40%でした。
もちろん、これは2007年の米国調査です。バプテストから他のプロテスタント教派へ移った人も「離れた人」に数えられます。この数字だけで「正教会、カトリック、プロテスタントの順で必ず継承に成功する」とは断定できず、差の原因が儀礼や文化だと証明した調査でもありません。
それでも、正教会とカトリックが多くのプロテスタント諸教派より高かったことは、私には考えさせられます。
正教会やカトリックには、教理だけでなく、目で見て、耳で聞き、体を動かし、季節ごとに思い出す文化があります。イコン、香、断食、典礼暦、聖堂、聖餐、季節の色や身ぶりです。
もちろん、形だけが残り、心が失われる危険もあります。しかし形を全部取り去れば、純粋な信仰だけが次世代へ飛んでいくのかというと、そんなこともありません。
文化だけの信仰にしてはいけません。けれども、文化にならない信仰もまた、子どもの生活には残りにくい。
信仰継承には、文化の継承という面もあるのです。
「聖書のみ」が「聖書だけ」になっていなかったか
宗教改革の「聖書のみ」とは、伝統を全部捨て、聖書以外は何も用いないという意味ではありません。信仰と教会を最終的に吟味する最高の基準が聖書だ、という意味です。
ところが私たちプロテスタントは、ときどき「聖書のみ」を「聖書だけ」にしてしまいました。祭りや暦を警戒し、儀式を遠ざけ、象徴を疑う。最後に残ったのが、説教を聞き、教理を理解し、正解を言うことだけだったとしたらどうでしょう。
福音を、頭から頭へ移す「宗教情報」にしてしまってはいなかったでしょうか。
これは、プロテスタントの牧師として私自身が反省させられるところです。
たしかに、信仰は文化と同じではありません。クリスマスにケーキを食べてもクリスチャンにはなりませんし、イースターに卵を飾っても復活信仰は生まれません。行事がイエス・キリストへの信仰に代わることはできません。
しかし、福音は最初から教理や情報だけだったわけでもありません。
過越祭では、食事をしながら出エジプトの救いを語りました。キリストはパンと杯を用いて、ご自分を記念するよう命じました。教会も礼拝、バプテスマ、聖餐、クリスマス、イースターを通して、時間と水と味覚と体に福音を刻んできました。
福音は、物語として語られ、パンを裂く食卓として味わわれ、バプテスマとして体に刻まれ、週ごとの礼拝として時間の中に置かれてきたのです。
「聖書のみ」は、信仰から色や音や味を全部消してしまう教えではありません。むしろ聖書そのものが、神の救いを子どもたちに繰り返し語り、食卓で味わい、体で覚えるよう教えているのです。
私たちは、どんな「甘さ」を残せるだろう
教会で聞いた賛美歌。礼拝後の食事。祈ってくれた人の声。クリスマスのろうそく。聖餐の小さなパン。それらが何十年後、人生が暗くなったときによみがえることがあります。
説教は忘れても、自分の名前を呼んで祈ってくれた声は覚えている。聖書クイズの答えは出なくても、クリスマスのろうそくは覚えている。
信仰は、そうやって文化や習慣となり、体の記憶にまで降りていくのです。
ディーナにとってのリンゴと蜂蜜のように。
甘い一年を願ったのに、人生が苦くなることはあります。祈ったのに、家族を失うこともあります。信仰を持っていても、世界が壊れたように感じる夜はあります。
それでも、暗闇の中でふとよみがえる味がある。
自分は一人ではなかった。自分のために祈ってくれた人がいた。神の物語を手渡してくれた人がいた。その記憶が、人をもう一度立たせることがあります。
教会は、子どもたちに何を覚えさせるかだけでなく、何を一緒に味わうかを考えなければならないのかもしれません。
正しい教理と共に、祈ってくれた人の声を。
聖書の言葉と共に、共に囲んだ食卓を。
福音の内容と共に、それを喜んで生きた大人たちの姿を。
リンゴと蜂蜜を見て、「バーモントカレーか」と笑ったあとで、『ラスト・オブ・アス Part II』は、ずいぶん重い問いを私たちに残します。
私たちの信仰は、次の世代の頭に情報として残るだけでしょうか。
それとも、人生がどれほど苦くなっても思い出せる、福音の「甘さ」として残るでしょうか。
サブカルは、神学してみるともっと面白い。
そして聖書も、サブカルから入るともっと身近になるのです。
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